開いた墓にいる未亡人
A widow at an open grave.


この度数では、未亡人が出てきます。
墓はおそらく亡き夫のものなのでしょう。

夫が生きていたころは、当たり前に入ってきていた毎月の収入、それに伴った豊かな生活、こういったものが、夫がいたときには、特別なこととも思わず、当たり前のように受け取ったいたのだと思います。


夫がいなくなってみて始めて、自分が今までずっと当たり前のように受け取っていたものが、いかにかけがえのない幸運だったのかを思い知ることになるのです。

私たちはとかく、自分の不幸には、目が向きますが、今ある幸せには、気が付かないものなのかもしれません。 例えば二本の足があって、普通に歩けることも、日々そのことに感謝したりしていませんよね・・歩けなくなって始めて、二本の健康な足があったことがいかにありがたきことだったかを思い知るのだと思います。


牡牛座の最初のこのあたりの度数は、肉体を持ってこの地球を生きる上での根源的な資質、性質について、最もシンプルな形で描かれていることをお話してきました。


1~4度までは、自分自身がもって生まれた豊かな資質や、才能について、触れていました。その魂の資質を生かし切って生きること。

それは、もともと生まれたときから、携えてきたもので、誰しもが自分自身の魂の資質、個性を持っていて、それを生きる限り、肉体的なもの、物質的なものは補われるということが描かれていました。

3度では、その豊かな地球の風景の中に、足を一歩、一歩と踏み出していく様が描かれています。 そして、4度では、虹の端にある黄金の壺は、あるかないかも定かでなく永遠に目には見えないものなのだけれども、だからこそ最もリアルなもので、最も確かなものなのだということが描かれていました。

4度までで、私たちが誰しも、もともと携えてくる魂の資質、これを当たり前に享受し、その恩恵を無意識で受け取って、生きている様が描かれていたと思います。 それは自分にとって当たり前すぎるくらい当たり前の幸運であったため、無意識になって、意識化されないことも多いし、また、魂の資質を例え、生き始めたとしても、印とか、シンクロとか、何か宇宙の後押しのようなものが絶対的に感じられないと、自信が持てないような、どこか、宇宙任せ?運頼り?みたいなところがあったのだと思います。


宇宙が後押しして、お膳立てしてくれるなら進むけれど、そうでないなら進まない。 そんなちょっとまだ、幼い風情が漂うのです。 そして、実際に、魂の資質を生き始めると、最初は、面白いように奇跡が起こり、 シンクロや、不思議なミラクルがいっぱい起こってくるものなのかもしれません。


それに自信をつけて、魂の道へと、入っていく。 しかし、それは、おそらくどこかで、自分自身の足で、自立して立つための、 宇宙の優しいお膳立てなのかもしれません。


そうした、無意識の当たり前の幸運やラッキーを使い尽くして、今まで見てきたものが全て、妄想だった?幻想だった?と、絶望的な気分になるような時が、そのうちに訪れるものなのかもしれません。
しかし、その時こそが、真に魂の自立を図る時が到来しているということなのかもしれません。


この度数では、まさにそんな世界観が描かれているのです。 それを、夫から当たり前に受け取っていた資産や豊かな経済基盤、社会的地位などが、ある日突然、全て消え去って、初めて、いかに守られていたか、いかにお膳立てされ、いかに、手を引いてもらっていたか、という愛を知ることになるし、 同時に、今までの幸運は、全て幻だったのか、幻想だったのか、といったような境地に陥る時間なのかもしれません。


牡牛座の反対側にある蠍座は、そうした意味で、誰かとの依存的な関係による支配とコントロールの世界観が描かれているのですが、牡牛座は、自分自身の資質で、自律的に生きていく世界観について描かれています。


ですので、この度数で一旦、全ての幻想や、拘束から解き放たれ、己の二本の足で、しっかりと歩みを進め始めていく、ファーストレッスンがここから始まるのです。


誰かや何かにお膳立てしてもらわないと、進めなかった幼い自分から、自分の人生は、自分で切り開き、創造するのだ、という始まりの章なのです。

ここからは、印もシンクロも、龍も天使も、見なくても、絶対的な宇宙との繋がりの自信が根底に育まれているのでしょう。