チュイルリー庭園
The garden of the Tuileries.


3の数字は1の男性性と2の女性性が足し合わさって、融合して生まれるものになります。 1と2という陰陽のエネルギーから生み出されるもの、創造されるもの。が3になるのです。
サビアンにおいても、3のエネルギーに関わる度数は、どの度数でも、何かが生み出され、創造されている様子が描かれていることが読み取れます。
特にこの3の性質が最も純粋に表れる3度では、そのサインの最も純粋でシンプルな1と2で表現された世界観から、こんなものが生まれたよ、という世界観が示されているのです。
チュイルリー庭園は、パリにある、美しい公園です。 ルーブル美術館と、コンコルド広場の間をまたぎ、北はリヴオリ通り、南はセーヌ川という、パリのド真ん中。ザ・パリ、といったような、まさにそんな場所に位置します。
都会のど真ん中に、非常に手入れの行き届いた、美しい自然の豊かな庭園が広がっているといいます。
こうした庭園は人間が人工的に作り上げたオアシスですので、私たちは都会の真ん中にいても、自然に憩い、リラックスしたり、楽しんだりすることが出来ます。
チュイレリー庭園は、機能美が備わり、左右対称に設計されているそうです。 何も人の手が入らない自然だとそうはいきません。左右非対称であり、 平らでもなく、芝生が青々としているわけでもありません。 本来の自然とは、リラックスどころか、本当は、どこに危険が潜んでいるか、常に分からないようなものが、本当の意味での自然なのだと思います。
私たちは、自然回帰するとか、自然に癒されるとか、自然に触れるとリラックスするなどと現代の人たちはよく言いますが、それは本当の自然を知らないからある意味、言えることなのではないか、とも思います。
本当の自然とは、時に、とても怖いものでもあったりするからです。 私たちはこうした、守られた人工的な自然。にある時に、リラックスして楽しめたりするのもまた事実なのです。
人間の手が入った美しい自然。 人間がイメージする、自然ってこういうもの。っていう
イメージ上の自然。
こうした美しい庭園は、人間の理想とする自然であり、 自然ってこうだったらいいなっていう自然。
本来の自然とは実は違うものです。
人間が理想を形にした、自然は、よく手入れが行き届き、左右対称で、美しい。 芝生は青々としていて、美しい水場があって、散歩中の犬の糞などは飼い主が持ち帰らねばならない。
そんな理想の自然を思わせます。
双子座1度では、知的な好奇心が、無限大にまで広がっていく様子が描かれていました、人間の知の爆発、がこの度数から始まっているのだと思います。 牡羊座では、ある意味、知識や知恵というよりかは、直感とか、インスピレーションと言った本能的な自我が生まれた世界でした。
牡牛座では、自らの肉体や生活を守り切るという、五感の世界、が発達しました。 牡牛座での物質的なものを守るとは、知恵や知性による、というよりかは、 時間と空間の中に、裏付けされた努力とか、コツコツとした継続とか、そういうもので、それ以外の選択肢は無いようにも見えました。 ここでは、効率化とか、自動化とか、システム化とかそういうキーワードは見当たりそうにありません。
双子座では、1度の外側に広がった知性と、2度の内側に広がった知性 1度の左脳的な感覚と、2度の右脳的な感覚 1度の学習能力と、2度のチャネリング能力、といったような対比される知性が、融合して、生まれ出るものが3度のチュイレリー庭園なのです。
知性を応用的に活用して、人間にしか作れないものを作る、ということです。
例えば雨風をしのぐ為だけに、何かやぐらのようなものをこさえたり、 スペースをこしらえたりすることは、ある程度、動物などにもできるかもしれません。
が、自然を操作して、数学的な計算を駆使しながら、理想上の自然を都会のど真ん中に作るっていうのは、人間のみが成しえることではないでしょうか。
自然を切り開いて、伐採して、わざわざ都市を作ったのに、今度はその都市のど真ん中に、理想の大自然を作る。 なんとも人間の面白さというか、身勝手さも、大いに感じさせます。
でも、実際に、私たちは、都市で便利に暮らし、都市に密集することで安全な生活を手に入れてきたのです。 しかし、都市化が進みすぎると、今度は、自然が恋しくなります。
自然の中でそれぞれが、定住せず、村化せず、個人個人で狩猟採集し、流浪して生きていたころは、あんなに自然の脅威にさらされて、自然の怖さを存分に味わってきたのに、やはり、私たちは自然を求めてしまいます。
だったら、危険な自然じゃなくて、安全な自然を、いつでも散歩がてら行けるところに作ろうじゃないか!ってなるようです・・
実際に、チュイレリー庭園は、中世において、王様の権力の強さを誇示するために作られたという話もあります。
私たち人間は、知性が発達し、そして、その膨大に集約されてきた知識から、今度は内側からの閃きを得るようになります。ここまで来ると人間は、知。というものをいかようにも、応用して、何でも作れるようになるよ、何でも創造できるようになっちゃうんだよ。ということをこの度数では言いたいのかもしれません。
だから、知の活用は、数字の計算から、いかようにも、自然を采配してしまえるものでもあったりするから、知の活用をどんな方向で使うかを、これもまた知を活用することで考えていかなければ、地球を簡単に壊してしまうようにもなるんだよ、ということもまた、語っているようにも感じるのです。
知の応用的活用は、人間の理想を、どこまでも形あるものとして実現もしてくれるし、使い方を間違えれば、ものすごいエゴの作用を地球全体に及ぼす可能性も持っているのだと、教えられます。