氷の上でスケートをする子供

children skating on ice.

一つ前の23度では、21度で無理をしすぎて、限界に到達し、22度で今度は、田舎に引っ込んで、生産活動を一切しないで休息の充実に偏りました。

23度ではそうした21度的な偏りと22度的な偏りを、中庸バランスで統合して、

行く働きをするのです。

23度の木の高いところにいる雛は、大切なものをとそうでないものを、見極めて、大切なものを、大事に育み、育てていく度数です。

双子座的な情報処理生活が、限界まで極まりすぎると、とにかく情報量が多すぎてとっちらかり忙しくなりすぎます。

まさに、現代人の私たちの生活そのものです。

産業革命以降、この200年余りで、私たちはモノを大量生産する工業化が一気に進みました。

そして、その工場の機械を動かすために、人々は、農村を離れ、労働者として

都市に密集して暮らす都市化が始まりました。

これらがもたらしたものは、時間通りに皆が同じ時間に会社に通勤する世界だったり、分刻みで時間に遅れないように生きる生活だったりを作り出しました。

またそれまでは自分の畑で作ったものをほとんどの人が自給自足で、暮らしていたものを、今度は、お金を払って食料を買う生活に変わり、暮らしが分刻みになったから食べる事や料理に時間をかけるのではなく、出来たものを買う、

そして、なるべく食事の支度に時間をかけないという暮らしに変わっていきました。

こうした都市型の生活に変わっていくにつれて、だんだんとお金がないと、生きていくことができない、という風に変わっていきました。

都市生活というのは、お金がないと生きていけない、ということでもあるのですね。

本来はそうではなかったのです。

農村生活では、ある程度の少しの金銭は必要としましたが、ほとんどは自給自足ですから、金銭が無いと必ずしもすぐに生きていけなくなる、ということはなかったのです。

双子座的な都市生活とは、このように、まさに近代の私たちの生活そのものです。

とにかく、忙しくて分刻みで、情報量が多い。

めくるめく移り変わる、末端の枝葉の情報をどれだけ知っているか、にかかっているようなところもあります。

ですから、食べることや体を動かすことや、体のことはほとんど顧みず、お金を稼ぐ行為にほとんどすべての時間を割いていかなくては生きていけなくなってしまったのが私たちの現代のありさまです。

しかし、2000年以降、状況は変わってきました。

時間と空間の軸を超えて、それまでの時間の使い方とは別の生き方、働き方ができる時代が訪れると同時に、そうした生き方にシフトしていく人が増えていきました。

こうして、少しずつ現代の私たちの暮らしと働き方にも、21世紀の革命が起こりつつあるのですが、この数百年は本当に、双子座の21度22度あたりの学びを繰り返して来たように思います。

どちらかに偏るとどちらかが立たなくなる。そういうジレンマがあったように思うのです。田舎暮らしをするということは、人生を諦めてどこか求道的な境地に至り、生産活動や金銭的豊かさを諦めるということ。だったり、

都市生活や生産活動に注力するということは、自分らしい生き方とか、休息することや、自然のリズムに沿った暮らしを諦めるということだったりとか、

どっちかを選択するということはもう片方を諦めなくてはいけないというような風潮があったように思います。

でも、今は、徐々にそうした両者が統合されきて、どちらかを諦める必要も、

どっちかを必ずしも選んでいかなくてはならないというような苦しみもなくなってきたように思います。

場所や時間を問わず、どこにいても、自分らしい仕事をしながら、暮らしを営んでいくことが出来る。一部の特別な人だけでなく、普通の人たちが皆そういう風に生きる時代が始まっていっているのが今の時代です。

では、双子座24度に話を戻します。

一つ前の23度では、そうした意味で、雑多にとっ散らかりすぎた作業量や情報から一番大切なエッセンスを抜き取り、高いところに上げて大切に育む体制が出来上がりました。

どっちかを選んでどっちかを諦めるのではなく、どちらも両方バランスよく生きていくためには、どうしたらいいか。そのためには何に集中し何を捨てたらいいのかを、見極めることが出来ている状態です。

双子座の、マルチタスク的な頭脳とはそういうことを考え、答えを導き出すことが出来るのです。

情報が多すぎて、振り回されるのではなく、情報を更に究極的に追い求めることで、必要なものとそうでないものをより分ける視点が養われる。

例えば、田舎暮らしをしていると、水も出ないし電気も来ないから毎日、井戸に水を汲みに行ったり、沢から水を引いたり、電気がないから、穴を掘って野菜を冷やしたり、畑作業をしたりなんやかやとそういうことをしているうちに日が暮れてしまって生産的な活動なんて何一つできない、

逆に都会生活で分刻みに生活をしていると、お金を稼ぐために朝から晩まで

満員電車に揺られて、何時間もかけて通勤して、残業して休日は接待で、

休息の時間もとれなければ、自然に親しんだりするような暇も全く取れません。

こうした、どちらかに偏りがちな暮らしの中で、どこをどう変えていけば、

自分が望む生活に変えていくことが出来るのか、そのためには何が大事なことで何が不必要なことなのか。など考えることが出来るのです。

双子座24度では、そうした雑多になりすぎた情報やタスクを、選り分ける究極的な感覚が育っていっているのです。

24の数字は、土台に3をおいた6です。6が外側からの要請に調和していくのに対して、15は、強く自分の要求を周りに押し付けます。24は自分で強く要請し、自分で受け取るのですが、私は24を、超絶的なオタクの世界と思っていて、

そのサインの性質が、ここでとても深く掘り下げられ、オタクな程に究極的な形で表れる度数だと感じます。

私たちの時間は1日24時間、これは、誰しもに平等です。

どんな人も1日は24時間なのです。この中で、双子座の21度くらいまでは、

究極的に分刻みでたくさんの用事をこなそうとする働きが起こっています。

少し前まではやった、ショートスリーパーとか、同時にいろんな作業をこなすとか、

時間管理術とか、そういった世界観って私はとても原始的だと思っていて、

与えられた24時間を分刻みで刻んで行って、どこにも隙の無いように、

用事を埋め込んでいく考え方です。

1分でも無駄にしないで、タスクを入れていく。そういうのが少し前まで

ビジネスの世界などでは主流だったと思います。

でも、それは、すぐに限界が来ます。

私たちの1日は24時間で、しかも私たちはロボットではありませんから、

休息も必要だし、遊びも余暇も必要なのです。

また、ちゃんと食べたり、ちゃんと運動したりして体のこともしないとなりません。

ですから、四角四面に考えて、分刻みで予定を入れて行けばいいという幼い考えでは、何も成しえることはできないのです。

双子座の24度では、そうした中で、何に注力し、何を捨ててどこを自動化し、

何をオートマチック化すればいいか、時間軸を超えた概念で考えることが出来るのです。

例えば、仕事をしながら主婦業と子育てをやっているお母さんがいたとします。

毎日のごはん支度を始め、家事や子供のことがとても忙しく、仕事も忙しく、

全く時間が無くて疲れ切っていると言います。

しかし、よくよく生活を覗いてみるととても効率の悪いことをしていることが良くあると思うのです。

時間がない、忙しいといっても、効率化できることがたくさんあったり、

機械や人に任せられることもたくさんあります。

また、自分が毎回同じことをやらなくてもオートマチック化するようなシステムを作ってしまうことだって可能です。

双子座24度では、氷の上でスケートをしている子供たちという度数で、

氷の上でスケートをするって当たり前のことなんですよね。

わざわざ、アスファルトの上でスケートをする必要はないし、逆に氷の上はスケート靴を履いて滑ったほうが効率がいいのです。

しかし、現代の日常生活では、アスファルトの上でスケートを滑って、滑りずらいとか、凍りの上でスケート靴を履かないで、滑る滑る!と、文句を言っているような場面が非常に多いのだと思います。

氷の上でスケート靴を履けば、ほら、こんなにスムーズに、素早く目的地にたどり着ける。ということを知っている度数なのです。

このように、自動化するところは自動化する、機械に任せるところは任せる、などといった、効率化を考えられるか否かは、とても重要な能力なのだと思います。

こうした感覚がないと、24時間を1分1秒の隙も無く、タスクで埋めていこうとすると、すぐに破綻をきたしてしまうことは目に見えているのです。

こうした効率化する才能は双子座が究極的にオタクが極まる24度で達成されます。

こうすることで、田舎暮らし的な畑作業を楽しんだり、発酵やパン作りを楽しんだりしながら、効率化されたなかで、仕事もきちんとやりながら、生産活動をし、更に、未来のために、勉強をしたり、遊びの時間や、家族との時間も取りながら、食べることや運動などにも時間を割くことが出来、充実した統合的なライフスタイルを築いていくことが出来るのではないでしょうか。