子供たちが大きな樫の木のブランコに乗っている

Children on a swing in a huge oak tree.

サビアン5度区分におけるグループ分けでは、11度から第3グループに入ります。

サビアンでは、5~10度までが第2グループになるので、ここでは、一旦、前進と拡大を止めて、ミミズが縮みこむように、大きくなるのではなく、内面的な方向にエネルギーがシフトします。

そのサインの性質を深いところで感じきり、落とし込もうとするのです。

獅子座の5度から10度まででは、獅子座の創造性という道具を、使いこなすための深く潜る作業が為されたのだと思います。

創造性という鍵を自らの中に誰しもが持っている。

それは、おそらくどうやら、魂と直結しているものだということ。

そして、それは、使えば減るとか、無くなると言った物質性の有限の性質のものではなくて、使っても使っても無くならないどころか、使えば使うほど、よく使いこなせるようになり、人生をダイナミックに循環させていくようなものだということ。

獅子座の第1グループではそんな珠玉の宝ものを、檻を作って囲っておきたい。

永久的に、自らのものとして固定確保したいとしたとたんに、それはどこかに消えてしまうという失敗をしたのでした。

魂の創造性とは、そんな資質のものなのだと思います。

そして、第2グループでは、夜空の星のような恒久的なイメージを捉え、

その目に見えない永遠の宝を、しっかりと、この地上界で、表現し、使っていく方法について、じっくりと学んだ章だったのではないでしょうか。

創造とは何か。

それは、9度で繰り返すこと、練磨し、鍛錬すること、謙虚であること、真面目であること、を通して、少しずつイメージしたものに近づいていくという土星的なルールについて語られました。

そして、それが出来るようになると(出来るようになるということは、強い意志と、感情の力があることもお話しました)、創造という形を、人生の隅々にまで適応させ、時間軸や空間軸を超えた、本当の意味での創造を行えるようになってくる、というお話も前章までで致しました。

サビアンでは、第3グループでは、3の性質を持って、今度はサインの性質が、

外側へ大きく広がり、エネルギーが活性化していきます。

2度で内面に大きく縮みこんだことで、そこで獲得したものを土台に、

3度では、思いっきりサインの性質をジャンプするのです。

獅子座の3グループでは、獅子座の創造性という宝物を使って、

この世の中で、俗社会で、自らの創造性を拡大拡散していきます。

獅子座の創造の世界は、周りに魅せる事でした。

そして、アピールし、表現し、拍手され、賞賛をもらい、人々に感動を与え、

心を動かすことでした。

そして、それは、一人一人の心に届き、沢山の観衆を動かしていく、王座の意識に他なりません。

獅子座の創造の資質を、しっかりと捉えて第3グループのサビアンを読むと理解が深まります。

私たちが、自らの創造したものを、周りにアピールするとき、それを沢山の人に知ってもらうことや、沢山の人の心を動かし、印象付けることが、時に必要になります。

獅子座の第3グループではそのことを最も活力的にやっていく物語が描かれているのです。

道と術の考え方がありますが、物事には本質的、根源的な事柄と、そこから派生する無数の枝葉末端とがあると思います。

道とは、道を究める事、自らの道を、ひたすらに追及することなのだと思いますが、例えば、9度で出てきた職人の世界にもそれを感じることが出来ます。

自らの道を、30年、50年と毎日繰り返し、鍛錬を繰り返し、技術を磨いていく。

そうして、出来上がったたった1点の作品を待っている人がいる。

また、物事の本質を探究する研究者や学者さん、一つのスキルを何十年も練磨している職人さん、技術者さん、アーティストの方、

優れた技術やスキルをもって、道を究めていく人たちがいます。

しかし、彼らが必ずしも、世に広く知られ、その技術に見合った評価と、対価を

もらっているか、というと決してそうではなかったりすることも多いものです。

これに対して、大したスキルや技術もないのに、また、そんなに良い商品でもないのに、大々的な宣伝を打つ資本力があるとか、派手な売り込みや、マーケティング術を駆使して、沢山の人に知られ、有名になり、結果、沢山の商品を売り、大儲けして、更に、巨大化していく個人や会社もあるわけです。

彼らは、自分を売り込む方法や、どうすれば、沢山の人の興味をそそり、

購買意欲を刺激することが出来るかを、知識として知っていたり、

自らを派手に演出したり、沢山の人の目を惹きつける方法を実践しているのです。

こうした方法論のことを、術というのでしょう。

道が正しいのでも、術が間違っているのでもありません。

どちらも、表裏なのではないかと思います。

道が得意な人、

術が得意な人、

がいるとも思うのです。

道が得意だけれども、どうしても術が苦手、

術が得意だけれども、どうしても道が苦手。

こういったことも良くあることなのだと思います。

でも、時に、獅子座的な創造性を発揮するには、このどちらもを、バランスよく使っていくことも必要になります。

苦手な方を逃げてばかりいては、いずれ、バランスを崩していくことにもなりかねないのだと思います。

獅子座の2グループでは、どちらかというと、この「道」のほうの世界観を、じっくりと学習してきたのだと思います。

そして、これから、語られる第3グループでは「術」の世界観についてのガイダンスなのではないかと感じます。

ですから、本来、術(枝葉末端)を使うということは、先に「道」を極めていないとならない、ということでもあるのかもしれません。

自らの根っことなるもの、幹となるもの失くして、

枝葉末端の術だけを小手先ばかり施したところで、メッキはすぐにはがれるのではないでしょうか。

また、術ばかりをいくつ知識として収めたところで、道やダルマがなければ、どこかで、間違ってしまうのではないかと思います。

また、逆に、いくら道を究めても、自らを宣伝しようとすること、周りに合わせて、分かってもらおうとする努力、お高く止まって、分かりやすさや、親しみやすさを無視してしまうこともまた、バランスを欠いた生き方なのだと感じます。

獅子座の11度では、大きな樫の木の枝にブランコを取り付けて、そのブランコで子供たちが遊んでいる様子が描かれています。

その状況をちょっと、頭の中でイメージをしてみてください。

大きな幹と、根っこを持った樫の木という本体があって、そこには、無数の枝葉が茂っているのだと思います。

その枝に、ブランコを括り付けて、子供がキャッキャと楽しんでいる。

大きな樫の木という、揺らがない根幹があるからこそ、そのブランコ遊びを楽しむことが出来るのです。

例えばこの樫の木が、幹も根っこも頼りない、ぐらついたような木では、ブランコ遊びなんかしたら、倒れてきたりして大けがをしてしまうかもしれません。

獅子座の創造の世界を本当の意味で謳歌し、楽しむには、この樫の木のような

揺らがない根幹、道。が前提になるのかもしれません。

そして、その根幹から出た無数の枝葉に、いろんな遊び道具をくっつけて、

どこまでも、創造性を遊ぶ、楽しむ。

そういうことができるのでしょう。

一つ前の10度の度数では、早朝の露で、魂の朝を迎えるように、瑞々しい夜明けを迎えました。ここでは、この物質界で、自在に魂の創造を楽しむことが出来るようになるまでになっていました。

それは、ある意味、この世界で、自由になった。ということでもあるのだと思います。獅子座の11度以降は、そうした自由に、この世界を遊ぶ姿が描かれています。

最初に述べたように獅子座の創造の世界は、周りに自らの表現と創造物を魅せる世界、ですから、ここからは、ここまでに獲得したものを土台に、

「世界に対するアピール」が始まるのです。

そう、術の世界です。

自らの中にある枯渇しない無尽蔵のエネルギー源の在り処を見つけた人は、

必要に応じて、いくらでもアイデアやインスピレーションを受け取ることが出来ます。

また、その受け取ったアイデアやインスピレーションを、形にすべく鍛錬と経験も繰り返してきました。

そして、10度までに、その具現化のレスポンスの速さも時間軸を超えていますから、11度では、遊びと楽しみが止まりません。

11の数字は、素数で、どこまでも、元気に性質が活性化します。

獅子座の11度では獅子座の遊びの世界(創造)が、どこまでも活性化し、

楽しみを謳歌している様子です。

それは、まさに子供が自らの才能に気づき、浮かれ、高揚する気分が収まらないような状態で、楽しくて楽しくて創造が止まらないのです。

そして、彼が創造を楽しめば楽しむほど、そして、それを遊べば遊ぶほど、

沢山の人た惹きつけられて来る。沢山の人が、彼を賞賛するのです。

そこには犠牲も奉仕も、やり取りも、何もありません。

彼はただ、遊び、創造し、楽しんでいるのです。