ハウスボートパーティ

A houseboat party.

19の数字は、素数で、前例のない活力やテンションの高さを見せます。

タロットカードで19番は、太陽のカードで、一つ前の18度で月の扉を開けて、

無意識の扉を潜り、意識的な自分、多次元なボディを持つ自分に出会っていくのが、19番のタロットカードの本来の意味合いです。

ですから、ある意味、ここでは「次元を超える」とか、今までの、二極的なものの見方から脱していく、そういう場面が始まっている局面でもあります。

19は、土台に3があり、1の数字のエネルギーとなります。

土台に3があるこのグループは、創造性に関わります。

創造すること、生み出すこと、は、時空を超えて働く作用であり、

本来、私たちの創造活動とは時間と空間の概念を超えたものなのだと思います。

ですから、サビアンでは、19度の度数は、そのサインにおける、魔法のような出来事。が描かれているという風に感じます。

そのサインの性質が二元の性質を超えて、思いっきり羽ばたいて創造を行ったときにどうなるのか。といった物語がこの度数で出てくるのではないかと

思います。

ですから、とてもテンションは高めで、活発な世界観が描かれています。

獅子座の19度は、ハウスボートパーティとなっています。

獅子座の16度以降の後半のストーリーは、それまでの、意識が外へと向き、

外的な要素を常に気にして、外側からの評価と賞賛をいかに得て、

自分自身がその王国の王様になることに意識を向け続けてきました。

獅子座前半の物語は、自らの表現により、周囲が、それを認めてくれるか、

また、そのことによって自分自身の価値を上げ、周囲よりも上に立ち、

周りに崇められることが出来るか、常にそういったところに意識が向いていた

物語でした。

ですから、前半の物語では、自分の王国の王になろうとしていながら、

国民の評価で、ゆらゆらと揺らぐ、また国民の評価が無いと、自分自身の中心が定まらないようなところもあったのだと思います。

ですから、権力とか、派手さとか、口八丁とかで、国民を良い気分にさせたり、

面白いことやお祭りごとなどを開催したりして、気を引いて、自らの王権を保とうとします。

派手な演出は、常にすぐあきられますから、次はもっと派手に、そしてその次はもっと盛大に、と、どんどん派手さの強度を増していかねばなりません。

ですからここでは、どんどん実際よりも誇大表現が強くなっていくこともあるのかもしれません。

しかし、獅子座の後半の物語ではそうした、外側ありき。の在り方に

限界を感じます。

次、次と、周囲の気を惹く派手な演出はすぐに疲れてしまうし、

そもそも、お祭り騒ぎの高揚した気分の時しか、充実できない、楽しめないのでは、何も成し得ることは出来ません。

獅子座の16度以降は、365日中360日のケの日。に意識が向き始めました。

ほとんどの時間はこのケの時間だからです。

高揚する一時のお祭り時間だけを楽しむことが出来ても、

他のほとんどのケの時間を楽しむことが出来ないのでは、真の創造は行えません。

ハレの時間である、お祭り時間を楽しむというのは、いわば、「外的な要因」ありきの、楽しみなのです。

バンバン花火が上がって、美味しいい屋台がたくさん出て、みんなが仮装して着飾って、お酒を飲んで、神輿を担いで盛り上がってる・・そんな

外的な楽しい要因がたくさん揃って、楽しむことが出来るのは当たり前だし、

誰だって、そういう時は、楽しくなるものです。

しかし、こうした外的な要因が一切なかったとしても、普段の普通の日に

静かに満ちている。そういう状態とは、とても「意識的な状態」なのだと思います。

一つ前の化学の先生のところで出てきたように、何かに脇目も振らず、集中している状態、それを探求することが楽しくて仕方のない状態、

周りの評価よりも、そのことを追求することに、強い意義を感じている状態、

また、17度のベストを着ていない聖歌隊のところで書かれていたように、

正装もせず、ただ自分の為だけに歌う歌、自分の為だけに唱える祈り。

こういうものが常に生活にあること。

とても大切なことだと思います。

正装。というキーワードが出てきていますが、私たちはとかく、ファッションを

過剰に気にしすぎるところがあると思います。

何を着ているか、どんなものを身に着けているか。は、

もちろん、自分自身を楽しませる要因もあるでしょうが、他人に見せたい。

周りから、こう見られたい、という欲望が根底にありますね。

周りから良く見られたいがために、洋服がいっぱいあってもあってもまだまだ買いたい、欲しい。こういった衝動というのは、少し前までは、普通のことだったし、当たり前のことでしたね。

でも物が溢れかえって、地球の資源がどんどん枯渇してきている今、

洋服をどんどん買い漁るという行為そのものが、だんだん淘汰の対象になってきていると思います。

また、それに伴って、私たち人間の意識が変化してきており、

どんなふうに装うか。洋服や着るもの、身に着けるものとどのように付き合っていくかというのは、その人の意識のレベルを、そのまま、見た目で表してしまうものなので、自分はイケてると思ってるファッションも、実は、すごく、意識のレベルにおいて、幼い、時代に沿っていないということも多くなってきているように思います。

ですから、17度の所に出てきた、正装していないという、たった一言のキーワードですが、私たちが、より自分自身に近くなって、自由になり、充実して生きるための、とても重要な要素なのではないかと感じます。

19度で登場するハウスボートですが、ボートのお家は、どこか一つの場所に定住しない要素を示しているのだと思います。

ハウスボートは、ボート型のお家で水上で暮らす文化のある国で発達したようです。オランダのアムステルダムでは、第2次世界大戦後、混乱の中、住宅供給が追い付かず、住む家がない人が溢れたといいます。

その時に、運河にボート型の家をおいて生活する人が出てきたのが始まりだったようです。最初は、住む場所がない人たちから始まった文化ですが、

現在では、ハウスボートは、別荘や、ホテルのように使われ、ステータスにもなっているようです。

獅子座19度で出てくるハウスボートは、おそらく、定住しない、物質的なものに縛られない自由な暮らしと生き方について言っているのではないかと思います。

ここまでの獅子座のストーリーは外側を固めること、集団の中で、最も高いステイタスにつくこと、などに意識が集中されていました。

しかし、獅子座後半の流れでは、最も自分に集中した状態になっていきましたから、獅子座前半の流れで最も大事にしていた外側からの評価や、

物質的な所有物や、周りより上であるためのステイタスは、逆に邪魔なものになってしまい、人生を制限する無用の長物になってしまったのかもしれません。

かつて家というものは、それを持つことが、幸せの象徴でしたし、

庭つきの大きな家を所有することは、近代文明では、ステイタスの最たるものでした。

家は生涯でいちばん大きな買い物と言われ、サラリーマンが、30年、40年と一生かかって返す計算のローンを組み、家を買う。

しかし、日本の家は、30年か40年しか持たないとも言われますから、一生住み続けられるわけではなく、また、家族の変化によってその時々に必要な家のサイズや在り方も変わってきます。

更に、家を買うことが資産を持つこと。と勘違いしている人が多いといいますが、

家は、資産ではなく、立っている土地が何かの加減で物すごい高騰でもしない限り、家の価値は下がり続けると言います。

ですから、自分が住むための家を買うことは(投資目的で買う場合は別)、投資ではなく、消費行為であると言われます。

子供が大きくなり巣立って行けば、大きな家は必要ありませんし、

物も減らすことが出来ますから、小さな家に住みかえれば維持費もミニマムになります。

こうしたように、その時々の生活のサイズや、ニーズに合わせて住み方、暮らし方を変えることは、必要なことですし、

リーマンショック以降のアメリカでも、それまで、大きな家を所有することがステイタスだったのが、身の丈に合った、また人生のその時々に合わせて、暮らし方を変えていくのが、これからの時代に相応しい家との付き合い方だというふうに

考える人が増えてきたといいます。

賃貸を活用したり、タイニーハウスやトレーラーハウスなどの需要も増えているといいます。沢山所有して、家に縛られる生き方は、時代の変化と共に様変わりしていっているようです。

また、現代では空き家問題がとても深刻化しているとも言います。

それまでは、家は、親から受け継いで、何代も住まうものでしたが、現代の家は、長持ちしないのと、また、核家族化が進み、親も子も、みんなそれぞれの家を持つようになったこと。

また、それぞれの家に大量の所有物がおさめられており、持ち主が亡くなった後も、処理する人がおらず、そのまま手つかずになって朽ちていったり、

周辺地域に害を及ぼしたりといったことが問題になっているようです。

こうした動きから、空き家を有効活用しようという団体や行政の動きも出てきています。

家も、物も、全て、地球のエネルギーを使って作られたものです。

しかし、それが、あまりにも1人の人に対して持ち物が多くなりすぎて、

その人の生涯が終われば、大量に廃棄される。

家族とは一緒に暮らせない、暮らしたくないといって、それぞれがそれぞれの家に住み、暖房にあたり、火を焚き、別々に風呂を沸かす。

現代の核家族化社会ではそれが当たり前の感覚になりすぎていますが、

現代の日本人の平均的な暮らしを地球の住民皆がしようと思えば、

地球が3個いる、と言われています。

所有することは所有されること。

そのことから、全く自由になることはできないけど、行き過ぎた物質的固定は、

創造において、とても大きな制限になるのではないでしょうか。

私たちが少しだけ意識を変えることで、暮らしにおける物質的所有の制限を

自由にしたり、考え方をちょっと変えるだけで、今まで、こうでなくちゃ絶対に生きられないと思っていたものが案外、いらなかったり、必要なかったりといったことは多いものです。

大概、そういった、「こうでなくちゃ生きられない」「これがないと生きられない」と思っているものって、対外的にどうみられるか、人から良く見られたい、バカにされたくない。そういう怖れが根底にあるのではないでしょうか。

獅子座の前半のストーリーでずっと描かれていた、「間違った個性」の表現は、

いかに持っているか、いかにステイタスがあるか、いかに人よりキラキラしているか、といった外的要素への働きかけによって自分の個性を獲得しようとしてきた過程が見て取れます。

しかしそれは、どこまで突き詰めても、自分を満たすことはなく、

それどころか、本当の個性に到達することもない。

外的な要素が無ければケの日は、とてもつまらない退屈なものになってしまう・・

そんな獅子座前半の学びを経て、この度数では、そういった外的要因により

自分を保とうとする世界から、飛び出し、自由になって行きます。

ボートハウスという、小さな家で、どこにでも移動出来て、物も本当に必要なものだけで暮らしてても、日々集中している作業があるので、ずっと充実していて楽しいのです。そして、地球に近い生活は、自分にもどんどん近くなるのでしょう。

ちなみに、アムステルダムのハウスボートは、最初住む家がない人たちの物だったと言われますが、現代では、ステイタスになってるようです。

大概、最初は、バカにされてたりしたものが、実は、未来的な生き方にあっていて流行るようになったりするものですよね。

川でボートの家で住むなんて、バカなのか!出来るわけない!貧乏で住む場所もないんだな・・と当時は思われたことでしょう。

対外的にどう思われるか、を捨てて、自分らしい生き方に勇気をもって挑んだ人たちは、最初はバカにされても後からこうして、結局、崇められるようになったりするものなのだと思います。