裸馬乗り
A bareback rider.
23度は、21度の陽のエネルギーと、22度の陰のエネルギーが統合され、
サビアンにおける、そのサインの成熟した形での統合が図られていきます。
そのサインの最も、脂ののった場面。とも言えるかもしれません。
そのサインの最終的な結論のようなものが描かれるのが、25度とか26度あたりになるのですが、23度は、その一歩手前、そのサインの一番おいしくなった
熟れた果実を収穫するような場面なのではないかと思います。
一つ前の度数の伝書鳩のところでは、それまで、目に見えない世界、魂の片鱗に触れ始めたはじめての体験に、熱狂し、スピリチュアルな道を歩き始めた人が誰しも通る、「一時的に狂う」状態というのを経てきました。
そして、夢から覚めて、あるがままの自分と、出会っていく。
真に霊的な冷静さを取り戻していく。
そういう場面が描かれていました。
21度の中毒した鶏が、どこまでも熱狂的に飛び立とうとする鶏だとしたら、
22度の伝書鳩は、どれだけ長い旅を経ても、ちゃんと元居た場所に戻る、
自らの帰る場所を分かっている、といった対比が描かれているのかもしれません。
一つ前の度数で、スピリチュアルリーダーの二つのタイプというお話をしましたが、
21度の状態の時って、はじめて触れたスピリチュアルな世界、魂の片鱗に熱狂している状態ですから、ほとんど自分の為だけに行っている道だったりします。
スピリチュアルヒーラーや、占い師といっても、こうした状態で仕事を行っている人はとても多いと思います。
でもこうした状態の時って、熱量が高いので、一時的に人を惹きつけたりするものです。スピリチュアルだけでなく、ビジネスの世界などでもそうです。
引き寄せの法則などといったスピリチュアルな力を、自分自身の願望実現のために、使っている状態です。
それが正しいとか、間違っているとかではなく、そういう過程だということなのです。
しかし、こうした状態というのは長くは続かないし、周囲がそのことにすぐ気が付くか(自分の為だけに活動している人はすぐに周囲が見透かします)、自己実現の欲求が満たされれば活動を辞めてしまうか、いずれにしても、短期的なものとして終わってしまうものです。
サイキック能力の高さなどで、こうした熱狂状態で、沢山のお金を儲けてしまった人などが、後から甚大な恐怖に陥って別の宗教に妄信したり、心を入れ替えたようにお金儲けを辞めて慈善活動に入ったりしているのもよく見かけます。
伝書鳩的な境地にった人というのは、自らの静かなスピリチュアルな道を続けながら、他者の役に立とうとしはじめます。
経験してきたことがあるわけですから、真に他者の役に立てることは何か、
周囲に貢献できることはなにか。自らの魂の経験を生かしてそれを行おうとし始めるのです。
21度の中毒した鶏の状態が強かった人ほど、22度的な状態への反転が
強いのだと思います。
人の役に立つかどうか。が全ての判断基準になる。
1円でもお金を頂くことはいけないこと。
自分本位であること、願望や欲望的になってはいけないということ、
常に清浄であらねばならないこと、
22度的な在り方が、少しバランスを崩すと、こうした状態になりかねないのではないかと思います。
獅子座の主たるテーマは、自身の魂に返り、自らの創造性に出会っていくこと。でした。
自らの創造性に出会っていく過程で、他者との関りは、必須のテーマです。
獅子座の前半の物語では、他者にどう見られるか、どう演出すれば他者を惹きつけ、拍手されることができるか、人より優位に立つことが出来るか、そういうことを学んできました。
しかし、後半に入って、他者にどうみられるかではなく、自分自身がどうありたいか、最も自分らしい在り方とは、どういうことか、を学んできました。
そのことで、魂の片鱗に触れ始め、熱狂し、ここに来て、他者との関りにおいて、
いかに、人の役に立てるか。自分の資質を生かして、周囲に貢献できるか。
そのことが最も魂において大事なことである、ということが分るまでに
成熟してきているのが、この22度の伝書鳩の度数です。
私は思うのですが、この他者の役に立つことを中心に置くことが出来るようになる過程というのは、魂の旅路において、絶対的に必要な過程であると感じるのです。
21度の中毒した鶏の状態も、絶対的に必要な過程で、誰しもが通る道であるのと同じように、22度の伝書鳩の過程も、誰しもが通る道だなぁと思うのです。
21度で、熱狂し、今度は、熱狂したと思ったら否定し、疑心暗鬼になり、人のせいにしたり、他者責めしたり、ようは、すごく自分勝手な状態を経て、
22度では、それまでの自分がいかに自分本位で恥ずかしい状態であったか気づくような場面なのだと思いますし、
スピリチュアルな道、高度な精神の道を歩んでいるつもりで、実はとても幼稚な状態であったこと、先人たちに見守られ、周囲に許されてきたことに
気が付くのかもしれません。
しかし、22度も21度の反転した世界ですから、ここは陰陽の関係になるのです。
ですから、21度にもアンバランスが生じるように、22度にも、アンバランスが生じるのだと思います。
21度では最も強く熱く、自らの魂を求める熱量が、いわゆる「熱に浮かされた状態」を作り出したのだと思います。
そして、このように、自分をやり切った人、自分を求めることをやり切った人のみが到達する境地というのが、22度の伝書鳩のような境地なのかもしれません。
自分以外の物を求めて(物質的な所有や、目に見える地位やステイタス)、彷徨い渇望する世界から21度では、目には見えない、真の自分自身を求めて、漸集中していく過程ですから、周りに多大な迷惑をかけることもあるのです。
それでも許されてきた自分に気づく時、22度のような、自らの無知と恥ずかしさに気づき、他者の役に立つ自分でありたい、また役に立つ事の喜びを知るようになるのではないでしょうか。
私たちは、自分の思い通りにしたいし、自分の欲しいものは全て欲しいと思っていますが、果たして自分の為だけに生きる事の何が面白いのでしょうか。
他者に喜ばれて、役に立てたときの喜びに変えられるものではないのではないでしょうか。
しかし、スピリチュアルな道というのは、こうした状況すらも成長と学びの過程なのではないかと思います。
他者の役に立つ喜びを知って初めて、真の自分に出会っていく準備が整う。
下地が出来る、といったことをこの23度の裸馬乗りの度数を見ると感じます。
22度の伝書鳩の境地では、その在り方が飽和すると、全てを宇宙の意図として受け取ることが出来る意識レベルにまで到達しています。
ですから、自然界の法則に組み込まれて生きることが出来るようになってくるのです。
何か物事が起こっても、双方向的な見方が出来るようになりますので、
一見、二元的な感覚で捉えればネガティブな事態が起こっても、
神の意志とか、宇宙の意志といったような起こった出来事の背景にある
真の意味。などが分るようになるからです。
また、競争や、他者に勝とうとする勝ち負けの世界なども卒業している状態ですから、全てをこうした全体性として捉えることが出来るのです。
伝書鳩が、自らの家に返るように、全てが自然界の法則のままに、
それを生きることが出来るようになる。
スピリチュアルに非常に発達してきた人というのは、こういう風に生きることが出来るようになってくるのです。
そして、こうした意識状態で生きるようになって、はじめて見えてくる境地が
この裸馬乗りのような境地なのではないかと思います。
全てを自然界の成り行きに任せて、宇宙の意図を汲み取り、超受動的な
在り方が出来るようになってくる。
諦めることで、明らめる。
99%を諦めることで、明らかにされる意識。
無知が明かされ、見えるようになる。
だから、全部を欲しがらないし、
その代わりに、本当に欲しいものが見える、分かる状態。
99%諦めた上で、最後の1%に残ったものが自分にとって運命の選択肢である、ということ。
そこは、どんなに条件が揃わなくても、どんなに厳しい環境でも、そこだけは、奇跡的に叶う、ということも知っていたりする。
なので、思い通りにならないことはそういうことだし、それを憂いたりもしないのだ。
でも、大半の人は、
ほとんど思い通りになってるのに、何もかも思い通りにならないと嘆き、恨み、苦しんでるなぁって感じることが多い。
99%思い通りになってるのに残りの1%が思い通りにならないと憤る。そして、最後の1%まで是が非でも思い通りにしようとして失敗しているなぁと。
その是が非でも。が、全くのワガママで、自分勝手なダルマに沿わない行いであるものだから、当然歪みが出る。
22度の伝書鳩では、完全受け身の状態で、自然界の法則に沿って生きる状態ですから、99%は法則に組み込まれ、自然界や宇宙に一体化して
生きているのですが、だからこそ、自分にとって必要な最後の1%が見える、分かるようになる、のです。
そして、その1%に本能的に集中していくのが、この23度の裸馬乗りの度数ではないでしょうか。
残りの99%は本当は要らないものなのに、それが分からない時は、
残りの99%も全て欲しがったりするものですから、
本当に必要な1%が一向に見えず、自らの人生に集中していくことが出来ません。
しかし、本当に必要な1%が見えた人というのは、類まれなる集中力と、行動力を発揮するのだと思います。
裸馬乗り、というキーワードから私は射手座の星図と、神話をイメージするのですが、射手座は、ケンタウロス族の半人半馬のケイローンが弓を持った姿で描かれた星座ですよね。
上半身は人間で、下半身は馬。
半分動物で半分人間になった状態です。
12星座では、牡羊座から、蟹座までが自分を形成するサインで
獅子座から蠍座までが、相手や世界と関わり成長するサイン
そして、射手座から水瓶座までが、トランスパーソナル軸で、
自分軸と相手(世界)軸が統合されていく場面で、射手座がその始まりです。
蠍座までに、自分の中の無意識と向き合い、それに翻弄され、動物的な自分というものが発する声を学んでいきます。
欲望の自分、欲する自分、感情的な自分という、動物の自分を、
蠍座までで学ぶのです。
ちなみに、射手座のケイローンが弓を引いているその標的の先には、
蠍座の蠍を狙っている姿となっています。
射手座はいよいよ人間になろうとしている場面であり、自らの中にある、情動の動物的な無意識の自分(サソリ)を、常に見張り、制御する
もう一つの知性が芽生えているのです。
シュタイナーの12感覚論では、射手座は運動感覚を司り、
意図を持って動くこと、行動することについて述べられています。
私たちは、意図を持つとき、足を使って行動し、意図するものを掴みにいくことが出来るのです。
人間の自由意志とは、そういうことで、意図するものへ移動する。
移動する(行動)するときには、そこに必ず意図がある。ということなのです。
獅子座23度の裸馬乗りは、自らの魂の絶対的な「意図」を
知る場面なのではないでしょうか。
その珠玉の意図を、知り得た人は、究極的な行動力と集中力を発揮し、
自らの魂の道へと、歩み始めます。