砂漠を横切る大きな駱駝

A large camel crossing the desert.

サビアンにおける25度は、サインのストーリーの、完結編の物語となります。

この度数をもって、サインの物語の結末を見る。というような度数だと思います。

16度以降の後半では、反対側のサインの性質を受け入れて、

全く反対側の受け入れがたい性質を受け入れ、統合を図っていく、

ストーリーが、始まりました。

そして、23度あたりでそのサインの盛りを迎え、クライマックスとなります。

そして、24度で、最後に出るものすごいストイックな強い力を持って、

そのサインの性質を余すところなく、追求しつくしていきます。

そして25度では、サインの完結編を見ることになります。

どのサインでも、25度は、そのサインの結果が表れています。

そのサインの主たるテーマに対しての、回答となる部分が、この度数に

現れているのだと思います。

5度区分ずつの6グループにおいて、25度は5グループの最後の度数です。

26度以降は、徐々に次のサインのエネルギーが流入してきて、次のサインの影響を受け始め、徐々に今いるサインを終わらせる準備が始まっていきます。

25の数字は、7の数字になりますので、ここで、統合化をはかり、その後、

次なる物語へと昇華していくという流れがすでにあるのかもしれません。

獅子座25度は、砂漠を横切る大きな駱駝、となっています。

ここまで獅子座のストーリーでは、魂の資質を生きる。という、獅子座の本質的なテーマについて、最終章を迎えていました。

誰とも違う、自分だけの個性を自分自身で発見し、なりふり構わず、

そこに集中していくのです。

この状態は、周りを全く感知しないという在り方でもあるのだと思います。

ここでは、自己実現という、人間の最も土台となる部分に挑んでいるわけですから、周りからの評価や、意見は、意に介していない状態でもあるのだと思うのです。

誰が何と言おうと、自らが信じた道に突き進んでいる状態であり、

もしかすると、そうした周りの声すらもはや耳には届いていないのかもしれません。

この度数では、砂漠というキーワードが出てきますが、砂漠というのは、不毛の地であり、生存するにはとても過酷な環境で、もしかしたら、命を落とすかもしれない場所でもあります。

駱駝はそんな過酷な環境の中、自らのコブの中に、水を貯え、自らの資質のみを拠り所にして、一歩一歩と孤独に進んで行きます。

私たちが魂の道のりを歩み始めたときというのは、もしかしたら、こういう状態なのかもしれません。

誰に頼るでもなく、誰に回答を求めるでもなく、誰のせいにするでもなく、

全てを自分の中にあるものだけを寄る辺に、たった一人孤独の道を歩む。

孤独。という言葉は、現代社会ではとかく、「悪いこと」のように扱われがちなキーワードですが、果たして本当にそれだけでしょうか。

孤独であることは悪いこと、怖ろしいことという認識を多くの人が持っていると思います。

しかし、私は思うのですが、魂を生きる。ということは、そもそも、とても孤独なことなのではないでしょうか。

孤独でない状態で、魂など生きられるものではないと思うのです。

そして、真の意味で他者と繋がることが出来る人もまた、絶対的に孤独なのだと思います。

絶対的な孤独を知らずして、他者と深く繋がることはできないし、

孤独というものを、良くないもの、怖ろしいこととして排除している限りは、

いつまでもずっと、他人任せ、他人のせい、外側にばかり答えを求め続ける

在り方が止みません。

孤独を否定し、悪モノにしているうちは、真に自分自身をまっすぐに向き合うことも、自分自身の魂の意図に集中していくことも出来ないように思います。

私たちは、本来、誰しも絶対的に孤独なのだと思います。

生まれるときも死ぬときも最後は一人。

自分がたった一人であるということを受け入れられる人だけが、

他者と深く繋がることが出来るし、真に相手を思いやることが出来るのだと思います。

現代の風潮として、孤独であること。から目を背け続ける風潮があると思います。

水瓶座時代に向かう私たちの集合無意識は、個であること、個性を生きる事。の方向にベクトルが向き始めています。

右え習えの皆と同じ生き方から、それぞれの個性で生きる時代。

それは、獅子座の学びを通して、水瓶座の意識を獲得していくということでもあるので、最初は、個性を生きるというと、獅子座の学びも大いに活用されてくるのだと思います。

獅子座の学びは、ここまで見てきたように、自分自身の個性を放って、自分が中心となって周囲に影響を与える世界との関わり方です。

ですから、現代社会では、芸能人とか、有名人に取り巻きが出来上がり、

彼らを賞賛し、憧れ、彼らのようになりたいと思う在り方が、そこかしこで見られます。

テレビの全盛だった20世紀などは、その最たるものだったのではないでしょうか。

テレビの中の虚構のスターに憧れ、自分も同じようになりたいという幻想を抱く。

そして、皆が同じものに憧れ、同じものを欲しがる。

こういう構造があったと思います。

しかし、誰かスターが中心にいて、周りに憧れの取り巻きが集まる。という

この構造は、水瓶座時代的ではありません。

誰かと同じようになる。のではなく、自らの個性を発見していく。

そして、それを生きることで、同じように自らの個性を生きる人たち同士が

繋がりあっていく。

それは、誰かがスターで、その他大勢は取り巻き。という関係性ではありません。

自分以外のものになる必要はないし、そもそもなれないし、なる必要もないのです。

あなたには、あなたにしかない個性があり、価値があって、それを発見し、

生きていくのが水瓶座時代の在り方です。

だから、誰かだけが目立ったりすることもない代わりに、

皆がそれぞれにおいてスターなのです。

だから、自らの個性を思いっきり生きても、叩かれたり、嫉妬されたり、恨まれたりすることもないのです。

だって、皆が自分の個性を生きているのだから、周りの人が自分の個性を生きていることを認め、尊敬しあうことが出来るからです。

だから、お互いの個性を生かして高めあうことが出来る。

憧れや羨望や嫉妬や妬みというのは、自らの個性を生きていないから起こるのです。

憧れは、羨望に変わり、羨望は嫉妬や妬みに変わる可能性があり、表裏の関係です。

あなたは、あなたに集中していく必要がある。

自分以外のものになる必要はないのです。

獅子座25度のこの度数は、自らの資質のみを頼りに、そこにストイックに挑んでいく様子が描かれているのでしょう。