二人の天使が保護をもたらす

Two angels bringing protection.

3の数字は1の陽の性質と、2の陰の性質が統合されて生まれ出てくるものです。

1度で、最も純粋にシンプルな形でそのサインの凝縮されたエッセンスが示されたのですが、その発露に対する、対応、回答が、2度でした。

ここでは、1度と2度の性質が合わさり、3の創造性が発現されます。

サビアンにおける3度は、そのサインの性質が大きく広がりを帯び、活発に示されます。

一つ前の2度では、大きな白い十字架が出てきました。

十字は、物質界の法則であり、白、という性質は、正しさとか、公明正大さ、潔癖さとか、また裏表のない純粋さ、幸せの象徴などのイメージがあります。

1度で、物質界の「形あるもの」への、視覚的物質的興味がしっかりと開かれた、

男の頭という性質は、目に見えるもの、形あるもの、手に触れられるもの、論理で説明できるもの、という、現実性に、根を下ろし、開かれた場面だったと思います。

獅子座の魂の光を見つける世界を経て、乙女座では、その光を創造として下すにあたって、物質界の法則を細かく知る必要があったのです。

乙女座では、物質界の法則だけでなく、集団として生きる事、についてのレッスンもあると思います。

肉体を持って生きるということは、自分以外にも、沢山の人たちがいる場で、

生きていくことになります。

獅子座までは、どちらかというとあまり他の人が介在していない世界観だったと思います。

獅子座の世界において、他者というのは、自分か、自分以外か、という括りであり、

自分があくまで中心にいて、周りの人たちは、観衆であり、民衆である。

あくまで、そういう立ち位置だったと思います。

しかし、乙女座は、6という性質を持つサインですから、周囲と合わせます。

自分だけが特別なのではなく、皆、同じ肉体を持った、同じ人間として、

集団で生きることを学ぶ世界です。

自分と、他者が、ここでは同列になるのです。

ですから、自分の想いを形にしたり、実現したりしたいとき、どうしたって

他者を意識しない訳にはいきません。

何か、些細な、小さなことでも、私たちは自分の思いを成し遂げようとするとき、

かならず、周囲の人のことを気にしなければいけません。

周りの人がどう思うか、自分がこれをすることによって、周りからどう見られるか、

あの人の気持ちはどうか、そういうことを、沢山、考えることになります。

こうして、集団の中で生きるためのレッスンが乙女座では始まるわけですが、

皆、同じ肉体を持った同列の立場ではありますが、乙女座は、個体差を分類分析するのがとても得意な性質を持ちますので、その同列な個体を、細かな分類分け、レベル分けしていく世界観もここではまた始まります。

乙女座の分類分けは、獅子座のそれとは違い、もっと緻密で、細かくて、根深いものです。獅子座の前半で示されたような、派手さや、目立ちたいや、そういうストレートな(ある意味短絡的な)レベル分けとは、全然違う、もっと、家柄とか、部族間とか、肌の色だとか、いろんな要素が入り込んでいるものだと感じます。

一度前の2度では、そうした意味で、大きな十字架に沿って生きる事。

物質界の法則の中で、生きる事。について、はっきりと明示された場面だったと思います。

また、十字架は、キリスト教の象徴でもありますが、ここでは、宗教の匂いが漂ってくるわけです。

私たちは肉体を持って生きる上で、時間と空間の法則の中に制限されており、

何か生きるための「拠り所となる考え方」を必要とするところがあると思います。

何を、信じて生きるか。

何を拠り所として生きるか。

こうしたものが無いと、私たちは、常に不安で、ふらふらと風に飛ばされてしまいそうな、不安定な感覚を持ってしまうものなのだと思います。

だから、私たちは、自らの拠り所となる考え方、指針、のようなものを持つことになります。

それの代表となるものが、宗教だったりします。

パイシスの時代は、あらゆる宗教が出来た時代でもありますし、一神教の流れも

始まった時代です。

また、一神教が始まる前のもっと古い時代では、多神教的なアニミズムの世界観があったわけで、精霊や、神々が、自然界のそこかしこに宿っている、自然界が神であった時代が長くあったわけです。

肉体を持って生きるということは、いつか、必ず、肉体が朽ちるという定めを持っています。それは、どんな人でも例外なくそうです。

私たちはそれがいつ、どのように訪れるか知らされていません。

そんな、なんの確約もないこの肉体世界を生きる上で、何を考えて、何を信じて生きれば良いのか、太古の人類も、全く同じことを考えていたことは、

間違いありません。

ですから、2度では、そういった意味で、物質界の法則を生きる上で、

指針となる生き方、拠り所となる考え方、についても示されたのではないかと思います。

私たちは、祈ることで、保たれたりするところがやはり、あるのだと思います。

宗教はたくさんの間違いを犯してきはしましたが、それでもやはり、これまでの私たちは、宗教なくして生きて来られなかった、というところもあるのではないでしょうか。

そして、その「拠り所」は、宗教でなくてもいいし、現代だと、学問的なものや、哲学や、物理学や、数学や、医学や、自然療法や、人生の中心の指針の考え方となりうるようなものが、沢山あると思います。

必ずしも、拠り所。が宗教でなくても良いのだと私は思います。

いずれにせよ、2度では、そうした意味で、自らが肉体を持って生きる上で、

何を信じて生きるのか、についても、示されているのだと思いますし、

その指針があることで、私たちは、生きることが出来たりするのも事実です。

しかし、この考え方の指針、というものは、当たり前のことですが、人それぞれ違うのです。

何を信じているか。何を信念として生きているか、は、千差万別です。

なので、この何を信じているか。を、自らの正しさ。として、誤認した場合、

他者を攻撃したり、否定したりする流れが起こり、争いが始まっていくことに

なります。

乙女座のレッスンでは、自分が信じていることと、他者が信じていることが

違っても、お互いの信じているものを認め合う、というレッスンでもあるのです。

ここまでの点を踏まえて、乙女座3度の、二人の天使が保護をもたらす、というところを、イメージをしてみたいと思います。

まず、天使とは、キリスト教の主に仕えるものたちであり、私たち人間をサポートしてくれる、マスターたちであったりします。マスターの階級の一番上にいるのが、

キリストですよね。

こういった存在は、どこの宗教にも存在するもので、仏教だと、マスターが仏陀になり、他に、菩薩様とか、阿弥陀様とか、たくさんのガイドさんたちがいるわけです。

彼らは、肉体を持たないけれども、私たち人間が、魂の成長を促せるよう、

地上に近いところにあえてとどまって、サポートしたりすることで、自らの霊性も向上させているとされます。

ですから、日常生活の中でも、何か守られているような、とか、

何かに導かれているような、とか、そんな感覚を持つ人も少なくないと思いますが、

何か目に見えない働きとか、サポートが入っているのかもしれませんよね。

私たちは、生かされている。

どうしたって愛されている。

と、思いますが、それは、もちろん、生きている肉体を持って、この世に存在しているたくさんの人たち、家族や友人や、お世話になっている全ての人たちのお陰様であることは勿論ですが、

それだけでなく、肉体を持たない、沢山の意識達に、教え、導かれ、サポートされているのかもしれませんね。

それは目に見えないものだし、不確かなものだから、全く気づかないことも多いでしょうし、嫌なことが起こると私たちは、自分の不幸に憤慨し、宇宙に唾を吐きたくなります。

でも、一歩下がって大きな視点から眺めてみれば、いかに生かされて、愛されているかを深く感じることがあります。

感謝でしかない、と、気づくことがあります。

そして、もしかしたら、それは、妄想かもしれないし、現実かもしれないし、

それは一生分からないことなのですが、事実がどうか、ということよりも、

2度で示されたような、何を信じて生きるか。という、その人の世界観が、

世界を作り出すのだということです。

何も信じない、何も生きる指針を持たない、祈りもないという人には、

保護の手がたとえ差し伸べられていても、それには、気づけないものなのだと思いますし、そんなものはそもそも、無きものになるのでしょう。

しかし、私たちの意識は、世界を創り出すことが出来るのです。

あなたが信じるもの、あなたが、創り出す世界そのものが、あなたという宗教になるのです。

仏陀もキリストも、みんな最初は人間でした。

そして、彼らの信じたものが、信じた世界そのものが、後世のお弟子さんたちによって、宗教という世界観を創り上げ、現代の私たちの意識を作り、世界を形成していっています。

私たちの意識とはそういうものです。

信じたものを創り出すのです。

乙女座3度で、登場する天使とは、正に、この自らの信じた世界によって現れた、

自分自身を守り、手を引いて、サポートしてくれるガイドたちなのではないでしょうか。

私たちは、魂を生きるとき、最初、どうしたってこのガイドたちの存在を感じ、

彼らの絶対的なサポートに安堵しながら進むものなのだと思います。

もちろん、彼らは、自分とは別の意識を持ちますから、依存べったりの状態では、

どうしようもないのですが、この物質界で肉体を持ち、魂を形にして生きようとするとき、現れる、沢山の不安や、赤ん坊のような駄々っ子を、一人前になるよう、

育ててくれる親のようなものなのかもしれません。

3度では、二人の天使が出てきます。

これは、どういう意味なのでしょうか。

まず、2というの陰陽であり、極性を現わしますから、自らの右の柱と、左の柱を担うものなのか、

または、自分だけでなく、他者にも同じように意識があり、魂があり、肉体を持って生きるための信じている世界があり、彼の天使がいる。

肉体をもって生きる私たちは、完全に個体として分かれているから、

時には、争いあったり、お互いの信じてるものを否定しあったり、優劣しあったりしてしまいますが、ガイドは、互いに、手を繋いでいて、お互いをあえて、

引き合わせているのかもしれない。

違いを認め合い、繋がりあうために、あえて、違う世界観を持つもの同士を

魂の成長の為に、あえて、引き合わせる。

そういう意味での二人の天使なのかもしれないなぁと思います。