観賞用のハンカチーフ

An ornamental handkerchief.

サビアンでは、15度で、そのサインの前半の物語が、ひとつ、完結していきます。

15度までの物語は、陰陽でいうと、どちらかというと陽のエネルギーなのだと思います。

そのサインの性質の、まっすぐな部分、表の部分、若い部分、まだ、反対側の魚座が入ってきていない、純粋な乙女座のエネルギーの部分、が

サビアンの前半では、現わされるのだと思います。

ですから、そのサインの、純粋なストーリーを、まっすぐに、直線的に、

なんの迷いもなく、一気に、15度まで押し上げていく。

こうした、迷いのないまっすぐなパワーは、乙女座という世界観しかまだ知らないからこそ、成し得る純粋な世界です。

乙女座の全体性のテーマは、「個の輪郭の確立」です。

次の天秤座のストーリーを始めるにあたって、この乙女座における、

自らの個としての輪郭を、認識していないと、

次の天秤座で、世界と関わった時に、自らを世界に対して、表明することができないからです。

乙女座の真の意味での、個の輪郭の確立、とは、魂の資質を、この世界の中で、

自らの個性として、形あるテーマに落とし込んでいく。ということなのですが、

乙女座の前半においては、まだ、魂の資質、ということころまで到達していません。

前半においては、まず、物質的な階級付けにおける自らの個性。を、

確立しようとしている最中なのです。

私たちにおいても、自分自身の存在を確立するために、その過程で、

物質的な階級付けを、何よりも重要視する過程が、人生においてあるのではないでしょうか。

というか、一生、それだけを追い求めたまま、人生を終えていく人たちも

いっぱいいるのではないでしょうか。

どの国に生まれたか。

どんな家柄に生まれたか。

肌の色は何色か。

どんな教育を受けたか。

どんな資格や、学歴を持っているか。

職業は何か。

どこの会社で、役職は何か。

年収はいくらか。

家や車は何を持っているか。

奥さんは美人か。

子供の学力はどうか。

こうした、ありとあらゆる階級付けの中で、いかになるべく上位に立てるか。

これが、何よりも大事だ、という人は、とても多いのではないでしょうか。

こうして、無数の階級付けが生まれ、自分より上か下か。(物質的に)で、

相手を判断し、上の物には媚びへつらい、下、と判断したものを見下す。

これは、私たちの普通の社会機構ではないでしょうか。

乙女座の前半の物語はまさに、これがテーマになります。

この社会の中で、物質的な階級付けが、高いほど、権力を持ち、力を持つことになりますから、自らの野望や、欲しいものを、手に入れることが出来る、という

側面があります。

ですから、なるべく高い階級に立ちたい、と思って、ほとんどの人が頑張るのです。

確かに、こうして手に入れられるものも沢山あります。

しかし、使い方を間違えると、逆に手に入らないものも沢山増えてきますよね。

次の16度から魚座の物語が流入してくることになりますが、

現在、魚座時代の最終章を生きる私たちにおいて、乙女座のテーマは、

パイシスの意識を手に入れていくために、必須のレッスンなのです。

乙女座のレッスンの初級編が正に、この物質的階級付けにおける優劣と差別からの自由。なのです。

魚座時代の2000年間は、物質的階級付けはとても複雑になりました。

とても複雑に、とても巧妙に、それは、私たちの社会にいりくんでいます。

物質的に持っているものが、持っていないものを見下す。

これは何も、王様と奴隷の間でだけ行われているわけではありません。

逆に言えば、私たちの社会はもうほとんど、王と民衆という構造は成しておらず、

ほとんど、民主主義的なていでありながら、非常に複雑な物質的階級付けが社会の中に根付いていると思います。

魚座時代では、こうした物質的階級付けの中で、より持っているもの、より高い教育を受けた者、より強い権力を持つもの、より物質的レベルが高いものが、

社会の中で、より豊かになり、より幸福になるというような仕組みがやはりどうしてもあります。

乙女座の前半では、こうした自らの意志によって、幸福を手に入れるために、

強い意志力をもって、目標を成し遂げていくサクセスストーリーが描かれていたのです。

しかし、14度で見られたように、目標を達成した後、あれだけ嫌で、逃げ出してきた、虚構の牢獄である、物質的階級付けの社会をまた作ろうとしているのが、

とても興味深く、サビアンの面白いところだと思います。

結局、個の輪郭を、探す旅路は、物質的なものだけを追い求めたのでは、

いつまでたっても、どこまで行っても堂々巡りで、真の、自分自身の個性には巡り合うことが出来ない、ということを言いたいのではないかと感じます。

乙女座15度では、観賞用のハンカチーフ、というキーワードで語られます。

一点のシミもない、真っ白なシルクのレースのハンカチーフ、なんてものが

イメージできそうです。

こんなハンカチがあったら、いかがでしょう。

手を洗ったあとに、このハンカチで手を拭くって感じではないでしょうし、

そもそも、不可触のもの、触ってはいけないもの、飾って楽しむもの、

目の保養。といった印象のものではないでしょうか。

一つ前の14度で、家系図というキーワードが出てきましたが、自らの成し遂げてきたものを、子供たちに受け継ぎ、帝王学を学ばせ、教育をし、また結婚も

血族の中でさせる。こうして、血をより濃くし、より、一族を末代まで繁栄させようとする。

(まぁ、こうした血縁関係での結婚が、障害のある子供などを増やし結局

一族を斜陽させるというのは、後から分かっていくことのようです。)

こうして、血縁が受け継がれていった後々の子孫たち。が、

この観賞用の一点のシミもないハンカチーフ。として表現されているのではないでしょうか。

最初に、一族を立ち上げた創始者は、きっと、ギリシャ神話のヘラクレスのような、

神がかった意志力と行動力と、人生経験を持っていたはずです。

しかし、その子供から、その子供へと、時間が流れるごとに、創始者の想いや、

意志の強さや、リーダーシップは無くなっていくはずです。

それは、当然のことですよね。

迫害された経験も、挫折した経験も、裸一貫から挑戦した経験もないのですから・・

世襲には世襲にしかできないことがあるとは言え、どうしたってそれは、

創始者の力にかなうものではありません。

それどころか逆に、なんの苦労も知らない子孫たちは、生まれたときから、守られて、崇めたてられて、手を伸ばさなくても何でも手に入ってきた人たちですから、

絶対的に、人の気持ちが分からなかったり、

ある一部の能力を欠いていたりすることもあるのでしょう。

自分で自分の個性を発見するのではなく、家系によって、守られ、家系によって縛られてしまう・・という本末転倒な結末もあり得ます。

例えば、フランス革命のときに、処刑された、マリー・アントワネットは、

民衆が飢餓に苦しんでいるときに、「パンが無いのならお菓子を食べたらいいでしょ」といったことは、末代まで、語られることになります。

きっと、彼女は、何の悪気もなかったはずです。意地悪心なんて、きっと全くなかったのです。

彼女なりに、民衆のことを心配して、出た言葉だったと思うのです。

だって、知らないのだからしょうがないと思いませんか?

パンもお菓子もない生活なんて、王女様は知る由もありません。

それは、彼女自身が悪いことなのでしょうか?

また、徳川幕府の歴代の将軍たちは、初代の家康は、もうこれは、ヘラクレスですよね。それは、周知の事実だと思います。

その後の、3代家光とか、8代吉宗とか、名将軍もいたようですが、

中には、ちょっと将軍の器ではない・・というお殿様もいましたよね。

また、そこまでではなくても、体が弱く、早死にしてしまう将軍もいたといいます。

13代の家定や、14代の家茂などは若くして死んでいますが死因は明らかでないところもあるようですが、脚気の説もあるようです。

江戸時代は、精製された白米を食べるようになり、白米が何より高級な食べ物だったようで、大量の白米を食べていたようです。

庶民や農民は白米は高級品ですからあまり食べられず、精製する前のお米や、

麦や粟やひえといった、雑穀に、芋や野菜などを食べていたようですから、

逆に現代の視点から見ると完全栄養食は農民の食べていたものですよね。

白米ばかり食べていたお殿様やお姫様たちは、脚気になり早死にする人も多かったと言います。

また徳川幕府では、お殿様やお姫様は、走ったり、して転んでけがでもしてはいけないということで、立つことも、寝床から起き上がることも、着替えることも、食事をすることも、全部、お付きの物の合図が無いと出来なかったようです。

これでは、運動不足で歩けなくなって、早死にしても当然だなぁと思います。

ここまで極端ではなかったとしても、この観賞用のハンカチーフというキーワードからはそのような様相が思い浮かぶのです。

乙女座の前半のテーマである、物質的な階級のトップに君臨し、それを、半永久的に、誇示しようとしたときに、起こる結果というのが、この度数で、描かれているように思うのです。

ハンカチは、決して、手を拭くことはない、実用的に使われることもない。

それは、一点のシミもなく美しく、ただ、周りから観賞用として、見られるだけ。

美術館に飾ってあるマリーアントワネットの模型のようなものなのかもしれません。

それは、誰にも汚されることもないし、迫害されることも、虐げられることもないけれど、もしかしたら、永遠に階級を超えた真のコミュニケーションに出会うことはないのかもしれない。

徳川幕府の将軍様に、誰も本心を語ることがないように、

そして、マリーアントワネットが、何故「お菓子を食べればいい」といったのがそんなに責められなければいけなかったことが、永遠に理解できなかったように。

これは、王様や王女様の世界に限ったことではありません。

こうした人たちを例に出すことで分かりやすくしているだけで、私たちの社会の中でも普通に、どこでも起こっていることなのです。

虐げている方は、虐げられている方の気持ちは絶対に分からないものです。

そして、生まれたときから、家系図の家系から受け継いだ物質的ヒエラレルキーを

持っている場合、それは、魂レベルで、気が付けないかもしれないことなのです。

今生では一度も気づけないまま終わるかもしれない。

そのことを、私たちは、覚えておかなければならないし、知る必要がある。

だから、宇宙の目で見れば、物質的ヒエラレルキーの上位を持つ。ということは、

必ずしも、幸せなことではないのです。

絶対的に気づけない、分からないことがあるかもしれないからです。

そして、まもなく終わろうとしている魚座時代は、このテーマを完了していかなければならないのだと思います。