頭上を飛んでいる飛行機
An airplane hovering overhead.
サビアンにおける27度は、9で分割したグループ分けでは、3を土台に置いた9となりますので、3グループは27度をもって終焉していくことになります。
次の28度では、ゴールと、あらたな第4グループの始まりの度数となります。
9の数字は、一つ前の8の数字で、物質性の完成形を見て、手に触れられる、目に見える、五感でキャッチできる、最後の世界を堪能しつくし、物質化したものは、同時に解体に入るという、8のエーテルへの存在形態の移行を見てきます。
天秤座の26度では、互いに入れ替わる鷹と、白い鳩、という度数で、
蠍座的な鷹の視点と、天秤座的な鳩の視点が、状況によってスイッチしている様子が描かれていました。
周囲に調和し、周りの意図をくみ取り、相手とやり取りをしていくのが、天秤座的な、友愛と平和的な、鳩的な視点でした。
またこれに対して、天秤座にて大きな視野、高いところから全体を見る視点を身に着けたことで、今度は鷹的な視点を持つようになり、一番高いところから全体を見渡し、その中から、自分に必要な獲物を見つけ、獲物に向かって、急降下、全集中していく視点も身に着けていったのでしたね。
天秤座は、初期においては、相手とのやり取り、周囲とのやり取りにおいて、
対人感性力や、コミュニケーションスキル、を身に着けていった過程がありました。
これは、あくまでも相手があり、集団の中で、どのような立ち位置に立つかで、
自分自身がこの社会の中で、より生きやすくなるためのスキルを獲得していこうとしたのでした。
天秤座がこうして培ってきた能力は、後半の度数にくると、対人関係や、集団との関係性というところから、人の心や、集合無意識、はては、自然界の潮流といったところから、宇宙的な意識までくみ取るようになっていきました。
こうして、対人関係というところから、全体的な視点を手に入れていった天秤座は、今度は、周囲の流れを読む。というその能力を今度は、蠍座において、
その能力を生かして「自分の欲しいものを得る」という、テーマにチャレンジしていくのだと思います。
天秤座は風のサインですから、周囲の兆候を読む、というスキルを身に着けることに興味があります。そして、そのスキルによって、より世界と広く関わり、
自らの世界を広げていくことに興味があるのだと思います。
これに対して、蠍座は、天秤座で広がった世界の中から、大きな視野を持ち、
自分が本当に欲しいもの、本当に関わっていきたい人、本当に集中したいことを発見して、そこに突っ込んでいくのです。
天秤座27度では、頭上を飛んでいる飛行機、となっています。
天秤座26度で、鷹の視点を手に入れた天秤座は、この度数では、
飛行機のような高く全体的な視点で、世界を眺めるようになっていきます。
飛行機の視点とは、例えば、地球の地平線を見るような、また陸地を、
海と陸で捉えるようなそんな大きな視点になると思います。
飛行機から地上を眺めるとき、私たちは、一人一人の人を認識することはできませんし、一軒一軒のお家を認識したり、動物や一本一本の木々を認識することはできません。
飛行機から見る視点とは、例えば、この辺りはとても緑が多いなぁとか、
砂漠地帯だなとか、建物が沢山建っている大都会だなとか、畑が広がる田園地帯だなとか、そんな風に認識するのではないでしょうか。
これは、飛行機に乗ったことがない人には分からない視点だと思います。
自分が住んでいるところが、近所のことはよく分かってるでしょうし、
どこにどんなお店があって、どこに学校があって、病院があって、
この近所にはどんな人が住んでいてということはよく知っていても、
自分の住んでいる町や、国土が、高いところから見たとき、どんなふうに見えるのか、ということは、分からないものです。
天秤座のこの度数では、対人、対集団という、ミクロな視点から、もっと大きな視野で全体を眺めるマクロな視点を獲得するに至っているのです。
こうなると、天秤座のテーマである、対人において、対集団においてのコミュニケーション能力を獲得するという、課題は解脱しているように見えます。
もはや、この度数では、一人の人と関わってはいないし、そもそも、個人個人を認識していません。
天秤座でありながら、もはや、一人の相手を認識する視点はなくなっているのです。
ある意味、このようになると、天秤座でありながら、一人の人と関わることや、集団と常に関わるというところからは、解脱しているのかもしれません。
また、もし、たくさんの人と実際に関わっていたとしても細かな人間関係や、猥雑な問題にもはや、振り回されなくなっているのかもしれない。
ある意味、いろいろ解脱した、悟りを開いたような状態になっているかもしれません。
対人面において、たくさんの人と、良好に関わっているのに、対個人同士の人間関係において、何物にも煩わされていない状態になっている人というのがいるかもしれません。
ある意味、誰か一人の人にこだわったり、思い入れたり、ということも、このあたりの度数にくると、もはやないのかもしれません。
俗世にいて、俗世を超越しているようなそんな視点を持った人を想像させます。
一人一人の人の性格や容姿や、特性などにはもう、惹きつけられておらず、
もしかしたらもう、認識すらできないのかもしれません。
この度数では、一人一人の個体差を識別するのではなく、人間全体として捉える視点、大きな括りで、人間を理解する視野を獲得したのかもしれません。