サマリアの女
The woman of Samaria.


7という数字は、二元の統合に関わります。7は、音階やチャクラ、曜日といった私たちの地球の法則の中に、たくさん登場しますが、7は、月の周期とか土星の周期などにも関連していると思われ、この物質界と、非物質界を架け橋するような、そんな力も持っている数字ではないかと感じています。


7は、陰陽のエネルギーを統合し、更に上へ飛翔するとか、前へ前進するといった、本来ならば、受動性の2のエネルギーを統合したうえで、先へ進む、非常にテンションの高いパワフルな数字のエネルギーを持ちます。

物質界の法則を超えるだけの力を持つ数字なのだと思います。

そこに牡牛座が足し合わさると、サマリアの女となります。 牡羊座7度では、二つの領域をうまく行ったり来たりしながら、両方を上手に生きて成功している様が描かれていました。

牡牛座7度でも、比較が登場しますが、ここでは、物質的な持ち物、についての比較が行われているのです。 サマリアの女は、聖書では最も差別的対象の下位にいる存在としての象徴として描かれているようです。

イエスがガラリヤへ向かう途中、サマリア地方を通った時に、井戸のそばにいたサマリア人の女に、水を飲ませてください、と頼んだ話が新約聖書では描かれています。
当時、ユダヤ人とサマリア人は交友を許されておらず、女は自分のような身分の者に、話しかけるとはどういうことなのかと不思議に思ったそうです。

イエスが、そうした差別的意識を持たずにいたこと、また物質的階級では最下位に位置するものこそが、この人物こそがメシア(救世主)であると、直感的に知っていたことなどが、象徴される聖書における有名な物語です。


この地球で、持てるものの層、持っていないものの層で分けたときに、国籍とか、性別とか、肌の色とか学歴とか、そういうありとあらゆる物質的な格付けにおいての比較が、ここでは成されているのです。


私たちは、いつだって、この物質的比較の中で生きているのではないでしょうか。 自分より持っている人に対しては、劣等感を抱き、自分より持っていない人を見ては優越感を抱く。

自分以外の存在が、たくさんいるからこそ、比較もできるわけで、そして、自分自身がどんな制限を持っているかも知ることが出来ます。 そのことで、私たちは、苦しむのですが、その制限こそが、自分自身の誰とも違う個性でもあり、制限が極まれば極まるほど、私たちは魂の資質に近づくことが出来るのかもしれません。


サマリアの女、という最も、持たない者の象徴としてシンボライズされたこの存在こそが、実は、最も魂の資質に近づき、己の魂の音色を聞き分ける道筋を知っている、ということを解説しているようです。


下手にいろいろ持っている者は、逆に目がかすんで見えなくなる。 しかし、何も持っていないからこそ、何も自由に選ぶことが出来ないからこそ、 完全に制限の中にあって、手足を縛られた状態だからこそ、最も珠玉の真実が見えている。そういう存在としてこの度数は描かれているのではないでしょうか。