しかめっ面のピエロ
A clown making grimaces.


11度は、5度区分による、グループ分けにおいて、
ここから第3グループが始まります。


第3グループはそのサインらしさが、第2グループの感情的な体験を経て、
深く自分のものとなり、第3グループで一気にそのサインらしさをまっすぐに 最高潮まで駆け上がります。


第3グループはどのサインでも、とてもストレートに力強く、若々しい自信満々のパワーで、そのサインの前半のストーリーを完成させていきます。


蟹座の第3グループでは、蟹座のテーマである、心。感情を感じきる。という 世界観になっていると思います。


第2グループで、完全に、自分を消し去り、愛する者の為、誰かのために、身を捧げた体験を通して、自分自身の中にある最も深い感情の世界に到達しました。 そのことで、心の扉を通して、自分自身の魂の性質に接触し始めたところまでが 10度の度数までで描かれていました。


11の数字は、自分と世界との対比が起こります。

二元の性質が11度の世界観では立ち上がってきます。

10度までで到達した世界観を通して、世界のエネルギーが流入してきて、
そこに対応していく流れが始まります。


ここでは、社会とか、集団の意識、のようなものに、客観的になった個人。が描かれていると思います。


蟹座の5度では、列車という集団意識に、車という個人が真っ向からぶつかって個人の方が完全に大破してしまった世界観が描かれていました。


個人と集団は、真っ向からぶつかっても、個人の方が木っ端みじんになってしまうのですよ、という教えがこの度数にはあったと思います。


そして、蟹座では、こうした5度での手痛い体験から双子座までで培った、 個人性の性質を手放していく流れが始まっていき、第2グループでは、誰かのために、集団のために、自分自身を消し去っていく作業が始まっていきました。



こうして、誰かを愛することで、誰かのために、自分を消し去り、誰かの影となって生きることで、自分自身の本来的な魂の光に接触しはじめたのでしたね。


こうして、本当の意味での個としての魂を思い出す過程は、低次における中途半端な個性を獲得するより、もっと元来的な意味で、個を取り戻し、獲得した過程でもあったと思います。


本当の個性とは、また個としての魂とは、集団性と対比しませんし、 自分の個性を知らしめるために、列車に激突していったりはしないのです。


個としての魂は、もっとゆったりと俯瞰的な視点で、集団とか、社会というものを眺めるのだと思います。


社会レベル、物質レベルでの個性は、集団性と、二元の拮抗する関係にあるのかもしれませんから、そこで衝突が起こるかもしれません。
しかし、それは、葛藤を生み出し、あまり意味の無い争いなのかもしれないと思います。


一度、誰かの為の影となることを経験したものは、誰にも侵されない本当の意味での個を獲得するのですから・・


蟹座の11度では、しかめっつらをするピエロ、という風になっています。


ここでは、個人と、集団との対比が起こっているのだと思いますが、 本来の魂の性質に接触した個。が、社会とか集団というものを、 もっと全体的な視点で眺めているのではないかと思います。


ですから、列車に衝突して大破するようなことにはもうならないのです。


ここでは、ピエロが登場していますが、ピエロは、パロディ的なユーモアで周囲の笑いを誘います。

ここでは、何かを皮肉ったり、本来の本心は見せずにおどけて見せて、そのうえで、本質について描写したりすることもあるかもしれません。


集団性に対して真っ向からぶつかれば木っ端みじんですが、パロディ的な皮肉なユーモアで、集団が無意識で盲従しているものに、風刺を入れることで、 本質をついていくのかもしれません。


ピエロがおどけて見せることで、誰も口に出すことが出来なかった、社会の歪や歪み、おかしなところが、笑いをもってして、あからめられるのかもしれません。


これが、暴力的で反抗的な、意思表示だったりした場合は、真っ先に、大きな力や、より大きな集団性に、木っ端みじんに叩きのめされてしまうところですが、
ピエロが出てきて、なんだか面白おかしく、自分を落としておどけた態度で、それを言えば、誰とも喧嘩にならないし、争わずして、本質を射貫くことが出来るのです。


こうして、笑いという手段を使って、周囲の共感を得ていくことで、 目的を果たしていこうとしているところが、とても蟹座らしいなと思うのです。


自分自身の中にある本質の光と繋がった人は、集団性に対して、 すでに機能しなくなっていること、古くなったおかしな秩序やルール、たくさん 見えてくるものなのだと思います。


個人の意識を、取り戻した人ほど、それがすごくよく見えるのだと思います。


しかし、その本質的な言い分を、周りの人たちを否定する形で、 詰るように言ってしまえば、誰にも共感してもらえないし、敵ばかりを作って、 いつかは、列車に大破する自動車のようになってしまうのです。


周囲を落として、周りを馬鹿にして、否定して、自分の正しさを認めさせようとするのは、単なる自己承認欲求に他なりません。 満たされない自分を、単に認めてほしいだけという根底の不足感から来ているのですね。


そこには、愛も共感も思いやりもありません。
とても爬虫類的な欲求とも言えるかもしれません。



しかし、ピエロになって自分が皆から笑われるような対象になっても、 恥っさらしのようなやり方でも、社会や集団に対して、テコ入れをしていくことは、 愛と勇気が感じられます。


蟹座の愛とは母の愛、最も大きな愛なのですから、 集団と対抗するのではなく、集団を包み込み、内側から懐柔していく、そういう 集団と個との関わり方を獲得していくのだと思います。