1人の女と二人の男が、南から射し込む太陽に照らされた場所にいる
A woman and two men on a bit of sunlit land facing south.



24度は、土台に3を置いた6のエネルギーを持つ度数になります。 6の数字は、周囲との調和、ハーモニーをいうキーワードになりますので、 自分の輪郭。というものが浮き彫りになり、周囲との関係を調整していきます。 自分と世界が比較されたり、自分の境界に他が入り込んできたりするのです。
純粋な6の世界では、偶数的に働きますので、世界に対して受け身、 どちらかというと、奉仕的になり、悪く出れば、犠牲的になったりすることもあります。
また、第2グループにおける6では15になりますので、ここでは能動性が働く6となりますから、周囲に対して、自分の輪郭をはっきりと示していく、支配構造のようなものが生み出されます。
それは、ヒエラルキアとか、分別や差異をもたらすこともあるかもしれません。
第3グループにおける6は、そのどちらもが統合的に働きますので、 創造的な6と言うことになりますから、世界との関りにおいて、その境界を突破していく、ぶち抜けていくといったような印象になります。
ですからサビアンにおける24度は、良くも悪くも、そのサインの性質を23度で出し切った後に、サインの性質を極め、突き抜けていく、限界を突破していく、 サインの性質が、最も深く掘り起こされていく、と、そんなイメージで描かれているのだと思います。
蟹座の24度は、1人の女と二人の男が南から射し込む太陽の当たる場所にいる。という風に描かれています。
ここで描かれているキーワードをそのままイメージしてみてはどうでしょうか。
1人の女と二人の男。まずは、この時点で、「普通じゃない」状態、が思い浮かぶのではないでしょうか。
普通、とは何なのか、ということを考えれば、何が普通で何が異常かなど、は その時代や、場所によっていくらでも「普通」は、変わっていくものなのだと思います。
しかし、現代社会においては、ひとりの女と二人の男、という構造は普通ではないと判断されることのほうが多いのではないでしょうか。
今は、ポリアモリーなどといって、複数のパートナーを持つことや、 必ずしも1対1の関係性だけを求めない人たちも増えてきていると言います。
それは、本当に本人たちの自由で、当人たち同士がそれで幸せに生きていられるのなら、誰に責められる所以もないことなのだと思いますし、 自分たちが生きやすいように生きる権利を誰しも持っていると思います。
ですが、こうしたちょっと「普通」と違う生き方をする人たちを、世間はまだまだ排除する傾向にありますし、本人たちの自由なのに、何故だか、関係のない人が非難したり、生き方を否定したりすることはまだまだ普通に行われているのだと思います。
この世界には、人の数だけ、考え方があって、それぞれが全く違う、本当はそれが元来の姿なのだと思います。
しかし、私たちは、普通であること。に、沿うて行こうとするし、普通であることを何故だか周囲からも求められるのです。
それが共同体意識ということでもあるのです。 共同体とは、皆が同じ考え方を共有し、それを生きる、ということなのです。
ですから、そこからはみ出る人は、村八分にされたり、排除されたり、魔女狩りにあったりしてしまう。
蟹座は、最初の段階では、そうした共同体意識に、個人の意識を沿わせて行く、 共同する意識に、埋没していく過程が描かれていました。
誰かのために生きるとか、誰かを守るために自分という個を没することの崇高さ、というものもまたあるのだと思います。
しかし、蟹座もこのあたりの後半度数まで来ると、だんだんと、次なる獅子座を意識し始めるですが、24度では、蟹座が極まり切って、ぶち抜けていく、というところまで来ているようです。
ですから、最初の段階では共同意識に沿わせて行った蟹座の初期段階から、 だんだんと、社会の中で大切なものを守りながら、物質的にも幸せに生きていくために社会(山羊座)に出ていろいろな挑戦と経験を経てきた過程があったと思います。
そして、最後に選んだ、最も蟹座らしいやり方で、1%の奇跡が起こるのを待ったのです。しかし、奇跡は起こらなかった。奇跡が起こらない奇跡、によって、 一つ前の文学会では、心を共にする仲間たちと深く深く繋がりあうことが出来たのです。
集団。とか、社会というものに対して、とても鋭い真実の感覚を共有しあう仲間となることが出来たのです。
これが、大成功してしまってたら、こんな仲間になれることもなかったかもしれません。ですから、蟹座的な世界観においては、奇跡が起こらなかったことによって、蟹座が最も求める心で通じ合う仲間。と巡り合うことが出来たのですから、
蟹座的な世界観においては、そっちの方が実はよっぽど、奇跡なのかもしれません。
そして、その仲間と共に、世間に対する共同する批判の意識を共に携えながら、理想郷を共に目指し、一緒にそれを作っていくことを志すのです。
世間が「自分たち」を認めないのならば、自分たちでそれを作ろう。 そして、誰の目にも触れず、自分たちだけの理想のパラダイスでひっそりと暮らそう、みたいな物語となっていきます。 それは、人里離れた山奥に、アシュラムのような自給自足の村を作ることかもしれないし、都会のど真ん中でもビルの一室で行われる家族的な宗教団体かもしれない。形はいろいろなのだと思うのですが、
そこは、一貫して、彼らだけのルールで作られた共同体だということなのです。 そういった共同体はいくつか聞いたことがあると思います。
例えば、金銭を一切使わない村とか、完全自給自足で農作物も日用品も作っているような村とか、などです。
ですから、ここでは、1人の女と二人の男という、現代の一般常識的な普通。からはかけ離れた生き方をしている人たちなのです。
そこには南から太陽が射し込み、ランドは土地があります。 土と、太陽の光さえあれば、私たちは生きていくことが出来る。
男と女がいれば、子孫を残し、共同体を反映させていくことも出来る。
現代の普通。の暮らしからは、まったくもって程遠いのだけれども 蟹座的における、パラダイスであり、最果ての・・理想郷が、ここに作られるのです。