中毒した鶏

Chickens intoxicated.

21の数字は、3の土台の上にある3の数字ですからとてもテンションが高いのです。

サビアンを5度ずつ6つのグループに分けたとき、ここは第5グループになり、

これまで、二元の向こう側のエネルギーを受け取って大きな挫折を体験したうえで、成長してきた、そのサインの物語が、この5グループに入ると、真にそのサインの成熟を果たしていく物語に入っていきます。

21度はそう言った意味で、そのサインの性質を、思いっきり謳歌できるだけの

成長をすでに果たしてきているので、思いっきりジャンプすることができます。

しかし、ここでいうジャンプは、前半の物語のように、無鉄砲に何も分からないからこそ、飛ぶことができる、というジャンプではなく、

きちんと状況把握したうえで、自分がどこまで飛べる能力があるのかを分かった上で、その環境の中で、最も高く飛ぶことが出来るのです。

サビアンでは、どのサインでもそうした意味で、21度は、とても活力的で、

元気すぎるほど元気な性質が描かれています。

21度で、動の男性性エネルギーが、思いっきり発露しますので、次の22度の女性性のエネルギーで、鎮めていくことになります。

これは、どのサインでも共通で、21度の動性、22度の静性が陰陽として働き、23度で統合をはかっていきます。

獅子座21度では、中毒した鶏、となっています。

なんだか、テンションが振り切れていそうなキーワードですね。

一つ前の20度で、ズニ族の太陽崇拝が出てきて、宗教的な場面が登場してきました。

獅子座は、前半の外側への意識が集中した状態から、後半以降は、内側の自分と出会い、深めていく世界観に入っていきました。

獅子座は人間本来の創造性と、存在性に立ち返っていくテーマのサインですから、獅子座後半ではいよいよ、真の意味での創造性と、自らの存在に出会っていこうとしているのです。

ですから、20度の太陽崇拝の度数では、自然と共にあった在り方と、

獅子座的な火の意識、創造性とが、合体していき、自由意志と、世界との共存の在り方が統合されていこうとしている場面なのではないかと感じます。

私たちはこのような意識を獲得してはじめて、この物質界で創造を行うことができるようになるのだと思うのです。

しかし、こうした内面と宇宙がダイレクトになり、本来の創造性を使えるようになると、また、その片鱗が少しでも見え始めると、私たちは一時的に「狂う」時期を

経験するのではないかと思います。

それは、真の意味での霊性に開く過程で、ほとんどの人が通る、

サイキック能力への執着、であったり、宗教への固執であったり、

スピリチュアルでいう地に足がつかない状態であったり、という

言葉で言い換えることができます。

私の座右の銘ですが、心の伴わない霊能力は魔術に堕ちる、というのが

あるのですが、この度数はまさにその状態を言っているのではないかと思います。

元々、生まれつき、サイキック能力が高いような人もいると思いますが、

サイキック能力が高いことと、人間としての意識が成熟していることは、

同義ではないからです。

本来、人間としての意識が成長してきて、霊的な能力が自然と開いていく

というのが自然な流れであり、理想ですが、

サイキック能力だけが開いて、心の成熟が伴わない状態というのは本当に、

不幸で危険な状態だなぁと感じます。

心の伴わないサイキック能力は、どうしても低次な力を使うことになりますので、

低次のエネルギーを引き寄せてしまうことになります。

目に見える領域だけでなく、目に見えない領域でもそういうものを引き受けてしまうと、本当に大変です。

昨今のスピリチュアルブームで、ヒーリングとかチャネリングとか透視とか霊視とか、こうしたサイキック能力の開発を一生懸命やって、そこに執着する人がいますが、今一度、何故、そこに執着するのか、その能力が欲しいのか、

振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。

霊的な能力に開いていて、不思議な力を持って、普通の人が出来ないことが出来る自分に優越を感じたいという深層心理の欲求ではないでしょうか。

また、それは、逆説的に、そうした不思議な能力を持っていない自分は特別ではないとう、掘り込みであり、劣等なのではないでしょうか。

そんな人とは違う能力を持っていなくても、不思議な力を使えなくても、

あなたは、あなたというたった一人の存在だし、特別な存在なのだと思います。

誰かと違わなくても、皆誰しも、特別なのだと思います。

また、宗教的な側面についてもそうです。

宗教とは本来、自らの存在性について、しっかりと思い出していくためのものです。

先に述べましたように、自分と宇宙の繋がりが本来あって、それが私たちは見えなくなり、忘却してしまっているため、肉体に閉じ込められ、苦悩しているわけですが、その本来の絶対的な繋がりを思い出していくために、あるものです。

しかし、ある一つの宗教に妄信すると、ある一定の意識の成長をはかるまで、

大概の場合「他を排除する」「他を否定する、認めない」という性質が起こってきます。

自分の信じてる宗教の教えが最も正しくて、自分の信じてる神様が本物で、

自分の宗教が真理である。

だから、それ以外のものは偽物で、

自分の宗教が教えてる通りの生活や、生き方をしない人を認めない。

そういうことが、起こってくる。

これも、最初に述べたサイキック能力と同じように、自分だけが特別である、

自分の信じてる神だけが本物である、自分の宗教が言ってることだけが真実である。

こうなってくると、世界との断絶が起こってくるので当然、自分の中での分裂が起こってくるわけです。

食べ物を取り合って、肉体の維持のために殺しあうのは、腹が満たされれば納まりますが、宗教の違いを否定しあう争いは、お互いの存在性を否定しあう争いですから、ものすごい大きな殺し合いに発展します。

そういった意味では、パイシスの時代の宗教戦争は、人類史上最多の殺し合いが起こり、史上最悪の戦争を生み出したと言われています。

私たちは、自らの存在性の正しさを証明するためならいくらでも殺しあう、という、

そういう意識状態を今の今まで脱していないのです。

また、現実世界とか、目に見えている物質世界に、疲れ果てて、精神性とか、

スピリチュアルな学びに入る人がすごく多いと思いますが、

スピリチュアルな学びの過程においてもこうした似たような状態になることが多いものです。

以上のようにいろんな場面での例を上げてみましたが、こうした状態になっているときって、本人は、周囲との断絶が起こっていることに、全く気づいていなかったりします。

また、周りの人から諫められたり、否定されたりすると、ものすごい攻撃的になったり、真理を理解できない、周りがおかしいだといった風になることが多く、

余計に周りから、「あぁ、あの人行っちゃったね。」って言われることになってしまうのです。

スピリチュアル業界に長く身を置いてきた私はこうした場面を、嫌というほど見てきています。そして、普通の社会生活を営めなくなる人もいらっしゃる。

ですから、この獅子座の21度の、中毒した鶏という度数の状況がすごく手に取るようにわかるのです。

こうした状態になっているときは異様な高揚感の中にありますから、本人は、物事を全体から静かに眺めることが出来ない状態になっています。

しかし、一つ前の度数で、宗教的な資質に目覚め、宇宙や自然との繋がりを獲得し始めていますので、この度数ではある程度サイキック能力を使い、

創造を行うことが出来るのです。

まだ、真の創造ではないかもしれませんが、低次エネルギーを使った

創造を行えるようになっているのだと思います。

よく、引き寄せの法則を使い始めたりしたときに、熱に浮かされて、

気持ちが高揚してちょっとおかしくなってしまっている人を見かけますが、

まさにあんな状態なのかなと思います。

奇跡を起こせる自分に、完全に酔ってしまってる状態です。

こういう時って、周囲を顧みることも、相手の気持ちを思いやることも出来ず、

タマスの眠りの状態からラジャスの激性に目覚め始めたような時ですから、

自分の思い通りに、なりふり構わず、「創造もどき」を行い、欲しいものをがむしゃらに手に入れようとします。

例えば、ビジネスや、目標達成においてはこういう時って、一時的で局所的ではありますが、瞬間的に強いパワーを発揮したりすると思いますし、

スピリチュアルをビジネスにしてるような人で、世の為人の為と言っていても、実はこうした中毒した鶏の状態になっている人は、初期の段階ではよく見かけます。

中毒した状態というのはある意味、一時的に、ものすごいエネルギーを発揮するものなのだと思います。

また、鶏というキーワードが出てきているところから、まだまだ人間になる前の、

動物的で稚拙な状態であることがイメージされます。

ですから、この度数ではやる気と、欲望とパワーに満ち溢れ、使い始めたばかりのサイキック能力を使い、欲望を果たすことが面白くってしょうがない、

けど、周囲のことは全く見えてない、という状態なのかもしれません。

しかし、私たちは本来の自分の戻っていく過程において、こうした過程というのは、実は誰しもが通る過程なのではないでしょうか。

この時期というのは、スピリチュアルな探求の道を歩み始めた段階で、誰しもが通る道なのかもしれないなぁと思います。

ですから、必要な過程であり、愛すべき過程なのです。

時に、こうした状態になっているときというのは、危険な状態でもあるのですが、

同じ道を辿って来た、先輩がたに、温かく見守られ、サポートされている時期であるということも忘れてはならないのだと思います。