伝書鳩

A carrier pigeon.

22という数字は、私たちの心や精神の成長物語に密接に関わっている数字のようです。カバラ生命の樹の小径の数は22本ですし、タロットカードの大アルカナの枚数も22です。

22という数字は私たちが肉体の次元での学びから、その背景にある根源的な自分自身へと立ち返っていく時に、通る通過ポイントのような数字の役割を持つのかもしれません。

数字のエネルギーとしては22は、4になります。3を土台に置いた4ですから、

創造性という土台の上に4という法則性や秩序性、連続性や継続性、

形骸化し、固定化するエネルギーが加わります。

22の4ですから、内面性や、感じる力、保守性や、受動性も思わせます。

ですから、サビアンにおける22は、非常に女性的で陰の性質を持った物語になります。

一つ前の21度は、非常に跳躍力のあるテンションの高い数字でしたから、

サビアンにおける21度は、そのサインにおいて、成熟してきた能力を最大限に生かし、飛べるだけ高く飛ぶ、そんな場面なのです。

これに対して、22度は、21度で思いっきりジャンプしたあとの着地点であり、

一切の受け身の姿勢を引き受けます。

21度の男性性と22度の女性性が組み合わさり、ペアとなることで、この後23度にサインの統合化が図られていきます。

21度がそのサインの最大のチャレンジであり、跳躍だとしたら、22度は祖のサインにおける、最大の陰のパワー。動かずして引き寄せる、といったような

陰の力を現わします。

ですから22度は、陰のエネルギーと言っても挫折や失敗や自信の喪失ではないのだと思います。

ある意味、21度と同じくらいエネルギーの強さを感じさせます。

21度は動いて得る。のに対して、22度は動かずして得る。のですから。

ここまでの獅子座のストーリーを振り返ってみましょう。

20度のズニ族のところでは、自身の中にある自然や宇宙と一体化するような

「魂の片鱗」に触れた場面でした。

19度までに、周囲や環境的なものに自分を沿わせる在り方から、自由になり、

自分らしい在り方、生き方を発見してきたからこそ、20度のズニ族の所では、

祈りや瞑想や、自然や宇宙との一体感という体験に触れ始めるのでした。

これまで、目に見えるものだけが全てだった二元的な世界から、

その背景にあるもの、目には見えないけれど、絶対的に在る、自己の存在形態を思い出し始めた過程だったのだと思います。

このようにして、人は、魂の片鱗に少しでも触れ始めると、一時的に「狂う」のだと思います、ということを21度の中毒した鶏のところで解説しました。

スピリチュアルに熱中して地に足がつかなくなるとか、

一つの宗教の妄信してそれ以外を排除したり否定したりするとか、

他者の話が耳に入らなくなる、といったような状態についても

前の度数のところでお話ししました。

この一時的な熱狂状態、狂信状態というのは、魂の片鱗にほんの少しだけ

触れ始めたスピリチュアルな初期によく起こることであり、誰しもが通る道なのかもしれないとも思います。

このような状態をある一定期間過ごした後、また見えてくる境地というのがあるのではないでしょうか。

ふっと、我に返ったような、ふっと夢から覚めたような、冷静さを取り戻すような瞬間です。

スピリチュアルに熱狂し、妄信し、攻撃的になっている状態の時って、まだまだ迷ってる状態で、魂の片鱗にもっと触れたくて不安でいっぱいのような時でもありますから、ちょっとすると、その少しだけ触れている魂の欠片が、どこかに

ふっと行ってしまいそうな、無くなってしまいそうな不安感が常にあったりします。

例えば、自分が繋がってるマスター?エンジェル?高次の存在云々との、

連携が切れてしまうのではないかとか、

見えているオーラ―や守護霊様?のようなものが見えてなくなってしまうのではないかとか、ヒーリングパワーが使えなくなってしまうのではないかとか、

そういう不安が根底にあることがあります。

だから必死になって「そこと」繋がりを保とうとする。

保とうとしてお金を散在したりといったおかしな状況もよく見かけます。

何度も言いますが、スピリチュアルな成長はお金では買えません。

お金を払って、なんとか能力を確保することも、伝授してもらうこともできません。

このような、ちょっと考えれば当たり前に分かることが、スピリチュアルや宗教に熱狂すると、簡単に分からなくなってしまうのです。

そして、更には、このような熱狂状態にある時というのは、いきなりある日突然

そうしたスピリチュアルな事柄を、否定し始めたり、嫌悪感を感じたり、

敵対心を持つようになったりすることもあるものです。

騙されたとか、自分が信じてたものは全て噓だった、無かったんだと、

挫折したりすることもあります。

それは全部、自分の中で起こっている問題なのに、それが見えないし、

分からないのです。

どちらにせよ、妄信している状態も、否定し嫌悪している状態もどちらも一緒で、21度の中毒した鶏の状態であることには変わりありません。

こうした事を何度か行ったり来たり繰り返すのが、21度の学びなのですから。

これに対して、22度の伝書鳩の度数は、全く違う境地に至ってるのだと思います。

スピリチュアルに熱狂し、否定し、熱狂し、嫌悪し、あっちの宗派、こっちの教団、そっちの教祖様と渡り歩いて、失敗して挫折して、そんな事を繰り返して、

見えてくる、本来の静かな境地。

それが22度の伝書鳩の度数なのかもしれません。

伝書鳩って、1000キロ離れたところで放っても、元居た場所に戻ってくることが出来るそうです。

古き時代から、メッセージを伝える担い手として使われていたようです。

鳩は、シンボルのアトリビュートとしては幸運の象徴ですから、

幸せを運ぶものとか、元居た場所に戻る、とか、本来の自分に戻る、といった

意味合いも、イメージできるかもしれません。

獅子座22度のこの度数は、私たちが魂の片鱗に触れ始めて、一時的な熱狂状態の時間を経た後に来る、ありのままの自分を認め、熱狂スピリチュアルから卒業してふと、冷静になる、そういう過程を現わしているのではないかと思います。

ふと、冷静になるといっても、熱狂状態から冷めて、周りを否定したり、他人のせいにしたり、目に見えない世界を信じる自分自身を全て否定するような、そういう夢から覚めた境地とは全く違うものです。

こういった状態というのは、夢から覚めたというより、まだ自分自身が夢の中にいることに気が付いていない未だ、眠った状態なのではないでしょうか。

それに対して、この22度の伝書鳩の度数は、誰にも依拠していない、誰にも期待も否定もしていない、ただ静かに自分の中に静かに在る、充実した状態に至っている人ではないでしょうか。

伝書鳩は伝える。という機能を持ちますから、こうした自分自身が経験して知り得たこと、体験してきたこと、を、今、熱狂し、狂信している人たちに伝える役割も持っているのかもしれません。

スピリチュアルリーダーのような人にも、こうした2つのタイプの人たちがいるなぁと感じます。

今、自分が熱狂状態で真っ最中のスピリチュアルリーダーは、まだまだ成長過程であるにも関わらず、熱狂エネルギーというのは、熱さがありますので、人を惹きつけるのです。一緒に、未開の地へ挑もうといった感じでしょうか。

これに対して、伝書鳩タイプのリーダーというのは、ある一定のスピリチュアル経験を経てきて、静かになり、本来の自分に気づいている。

そして、今、迷っている人に、自分自身の経験してきたことを伝え、役に立とうとしている。熱狂させるのではなく、静かに冷静さを取り戻させるスピリチュアルリーダー、こういった人も、少ないですがいらっしゃいますよね。

獅子座のテーマとは、魂の自分に出会うこと、創造的な自分に立ち返ること。ですから、獅子座の20度以降の物語では、いよいよ本物の魂と創造性の物語が

紡がれていきます。

21度は、そのサインの、成熟した形での最大の跳躍だとしたら、22度は、そのサインの最も充実した陰のパワーなのかもしれません。

この度数では、獅子座がもっとも、自己に返り、環境に左右されずに他者の役に立とうとする場面なのかもしれません。