大きな木の枝にとまる沢山の小鳥

Many little birds on a limb of a large tree.

28の数字は、10の1であり、物事の終わりと始まりを現わす数字です。

また、9で割っていくグループにおいては、28は土台が4になりますので、ここで世界観がガラリと変わる場面でもあります。

27度までで3のグループが終了し、そのサインの創造における物語が

エンディングを迎えるのですが、28度からは4が土台になりますから、

法則性、秩序性というものが土台となってきます。

しかし、28という数字は、7が4つですから、単なる4の物質性や、形骸化のニュアンスにはならないのだと思います。

7という数字は、物質性から非物質性への昇華とか、チャクラの数とか、

曜日の数とか、月の満ち欠けや土星の周期などにも関わる数字ですから、形骸化されたものが姿かたちを変えていくような、また、法則化されたものが、

無秩序化されていくような、とか、そんなニュアンスを感じさせます。

また新たにここで出来る秩序があるとすれば、それは、物質的な秩序というより、もっと非物質性の秩序。といったイメージも浮かびます。

28という数字は、私たちの感情のサイクルであったり、月のサイクルにも関わります。また女性の生理の周期とか妊娠のサイクルなども絡みます。

月の周期と、海の満ち引きは連動しており、感情、月、地球の水は、関係して動いているのです。

28は神秘の数字であり、物質界と非物質界、地上と宇宙を繋ぐ役割すら感じさせる数字です。

サビアンでは、ここで終わり、ここで始まる物語があるわけですが、

イメージとしては、前のサインと次のサインを繋ぐもの、媒介するものといったイメージも浮かびます。

ここで今のサインを終わらせて、次なるサインを受け入れていく受け皿を整え始める感じがします。

獅子座28度では、大きな木の枝に沢山の小鳥たちが止まっている様子が描かれて居ます。

大木にたくさんの枝がおおい茂っていて、その小枝に、沢山の鳥が止まって、

ピーチくぱーちく言ってる様子を思い浮かべてみてください。

なんとも、乙女座らしい世界観が、自然と思い浮かんでくるのではないでしょうか。

獅子座の一つ前の度数は「夜明け」という度数でした。

このキーワードはとても壮大なテーマで、私たちが、深遠な宇宙と繋がり、

自らの魂を完全に思い出し、覚醒する場面が描かれていたわけですから、

なんだか、日常とは完全にかけ離れた、すごく崇高な世界観をイメージさせるのではないでしょうか。

確かに、私たちは皆、誰しも例外なく、この魂の世界と繋がっている。

私たちの人生は、この魂の旅路の夜明けに出会うために生きていると言ったって過言ではないくらい、普遍的なテーマなのだ。

しかし、そのテーマは、遠大過ぎて、深遠すぎて、つかみどころがなさすぎるものだ。壮大さはよく分かったけれど、じゃあ、実際問題としてどうなってくの?みたいな疑問も浮かんでくるところだ。

魂の夜明けに辿り着いた人は、主体的な人生を生きはじめると、前の度数で解説しましたが、それを実際の日常の行動レベルに落とし込んで行けば、

本当に、細かな小さなカテゴリに、分類されていくし、todoリストだって、すごく細かく分かれていくものなのだと思う。

意識的に生き始めた人の、日々の生活というのは、こうして事細かに、自らがやるべきことを、分類し、意識的にそれをこなしていくものなのだと思います。

なので、この度数に描かれているように、この大きな木が、魂という遠大なものだとしたら、それを、この物質界で体現しようとすれば、それはそれは事細かに、枝葉が分かれていくものなのだと思います。

魂。と聞くととかく、何か、これ。といった分かりやすい職業名とかがあって、

すごく単純に仕事や天職が決まるものと勘違いしている人が多いなぁと感じますが、そういうことではないのだと思います。

よく、私は、時間は命です。というお話をよくするのですが、

肉体を持って生きるこの物質界において、時間というものは有限性であり、

これは、誰しもに平等に機能しているシステムだと思います。

お金持ちな人もそうでない人も、権力者もそうでない人も、誰しも時間という有限性の中で生きており、1年は365日、1日は24時間、この時間の枠の中を誰しもが生きており、この法則からはみ出して生きることは、どんなに大金をはたいてもできないのです。そして、肉体も時間と共に老い、いつかは朽ちていく定めにあることも、平等な法則です。

時間は平等に私たちに機能しています。

ですが、その平等に与えられた時間を、どのように生きるか。は、それぞれの意識レベルに任されることになります。

与えられた時間を、どう生きるか。

これによって、人生は全く違ったものになっていくのだと思います。

主体的に生きる、意識的に生きるとは、この時間の価値というものを、十分に意識していて、この度数に登場するような枝葉に止まったたくさんの鳥たちのように、

時間と向き合っていくことなのだと思います。

これが、主体的に生きるということであり、魂を生きる、ということなのだと思うのです。

魂を生きるとか、自分らしく生きるとか、とても流行ってますが、

それは、ただ、ホロスコープとか占いとかで魂を見つけて、自分らしさを見つけて、

そこで終わり、なのではなく、

また、何か神秘的で深遠なものに触れて終わりなのでもなく、

その大樹に生えるたくさんの無数の枝葉を取り扱っていくということなのだと思います。

大樹には時間はないかもしれませんが、枝葉と小鳥には時間が機能しているのです。

時間。という、私たちに平等に与えられたシステムをどのように取り扱っていくか。

また、そこで派生してきた、細かなタスク。について、触れているのが、この28度の度数なのではないでしょうか。

時間というものを、ただ向こうからやってくる用事やタスクに、翻弄されるようにただただ忙しく過ごしてしまうのか、

意識的に時間を取り扱っていくのか。というのは、大きな違いがあるのだと思います。

だらだら過ごしているのではなくても、なんだか日々の当然やらなくてはいけないと思っているような用事に翻弄されて、毎日が終わってしまうといったことは、

誰しもにあることだと思います。

でも時間というものは意識的に向き合い、取り扱っていかないと、

本当に受動的なまま過ぎ去ってしまうものだと感じます。

それは、だらだら過ごしてはいけないとか、休んではいけないといことでは全くなくて、(だらだら過ごす時間も、休息する時間も必要だし、大切な時間です)

そうではなくて、ただ無意識的に日々のタスクに追われて過ごしてしまう事について言及しているのです。

時間は命だというお話をしてきましたが、

時間というものを意識的に取り扱わない人は、自分の命を大切にしていない、

自分自身を大切にしていないことになりますから、

こうした人は、他人のことも大切にしないし、他人の時間を大切にすることがまた、できないのです。

こうした負のループというのが無意識的人生においては起こってきてしまうのです。

魂の夜明けを迎えた人というのは、今度は、この度数に描かれているように、

細かなタスクに自らの魂を細分化して、行動計画に落とし込んでいきます。

それは、時間という法則と、真剣に向き合い、意識的に取り扱い始める生き方が始まっていく、ということでもあるのです。

魂。っていうと、何か実体がなくて、ぼわっとしていて、リアリティのないものと思われるかもしれませんが、決してそうではなく、むしろ真逆です。

魂の夜明けを迎え主体的に生き始めるということは、とても実質的で、

リアルな現実を生き始めるということです。目をしっかりと覚まして、物事を明らかに見て生き始めるということです。

だからこそ、命を生き、時間と真剣に向き合いはじめるのです。

よく、今を生きることが大切というのが言われると思いますが、それは正に、

この時間という法則を真剣に向き合うということに他なりません。

今という瞬間がいかにかけがえがなく、唯一無二のリアリティであることを認識しているからです。

それは正に、この28度で描かれているような、大樹に無数の枝葉が伸び、

魂が細かに分類分けされ、実際的なものに落とし込まれていく様子として

イメージすることができるでしょう。