最初のダンスの練習

First dancing instruction.

サビアンにおける8度の物語は、6度で、世界からの影響を受け、感じたこと、縮みこんだもの、侵された境界を、7度で、活力をもって統合し、先へ進もうとしました。

乙女座では、6度で、自らの乙女座という世界観を、五感の制限の中から、

見て、感じ、関わろうとした結果、メリーゴーランドという虚構のファンタジーが

造られました。

制限の中で作られる創造物とはこういうものなのだな、ということがとても

分かりやすく示されていたと思います。

6度のメリーゴーランドに示されるように、私たちは、イメージやインスピレーションを、まずはこうして、五感の制限の中で、形にしてみることを、練習するのだと思います。

それは、本当の創造とは、違うものなのだけど、でも、まずは、こうして

イメージを形にするというレッスンをする。

6度では、限られた条件下ではあっても、形にしてみること、造ってみることを通して、乙女座の世界である五感の世界で、イメージを形にすることを、遊んでいるのです。

そして、7度では、メリーゴーランドが更に進化して、乙女座的な、制限の世界と、無意識的に関わった結果、生まれたのがメリーゴーランドだとしたら、

ハーレムは、乙女座的な制限の世界と積極的に関わった結果、出来上がった世界観ではないでしょうか。

メリーゴーランドより、大奥の方が、システムとしては奥が深いです。

どちらも造られた虚構の世界ですが、メリーゴーランドは、一時的な楽しみ、快楽の世界だと、誰でも分かります。

が、ハーレムに関しては、一生涯、そこの場所とシステムを、リアルな現実として沢山の人が、生きる運命を持っていたりするようなものです。

徳川幕府は300年続きましたが、大奥のシステムも300年続いたということですよね。この中で生きていた、歴代の徳川将軍たちも、そこで生きた女性たちも、

その造られた虚構の世界から、逃れることはできなかっただろうし、

その世界がリアルであると、信じて生きていた人も沢山いたのではないでしょうか。

大奥の中で、上り詰めること、お世継ぎを身ごもること、将軍の母となること、

こうしたことを求める事こそが真の幸せであると信じて生きた人が、

大奥の中にはたくさんいたのではないでしょうか。

ハーレムの元々の語源は、イスラム教によるもののようで、イスラーム聖典のコーラン(クルアーン)には、預言者ムハンマドの自宅に出入りする信者たちたちと、ムハンマドの妻や家族たちの居室を、厳密に区切り、両者が会話したり、コミュニケーションが取れないようにしていたということです。

妻や家族たちが暮らす居室は、あくまで男子禁制で、イスラム教の女性たちは夫の前以外では、顔も前進も黒いヴェールで包んでいるのを見たことがあると思いますが、夫以外の男性に、顔や体を見せる事は、今でも許されません。

こうした、ハーレムは、イスラム社会以外にも、オスマン帝国や、江戸時代など、大規模なものが、世界の歴史の中でもたくさん見られます。

広義の意味では、オス同士の闘いに勝ち抜いものが、沢山の女性を囲う、権力と財力があるということです。

また、ニューヨークマンハッタンに出来た、アフリカ系アメリカ人の居住地としてのキーワードも持ちます。

乙女座7度のハーレムは、旧来的な意味合いの男子禁制のハーレムのことだと思いますが、このニューヨークの居住地のハーレムは、アフリカ系アメリカ人の文化拠点であり、1900年代初頭には、ハーレム・ルネッサンスという文化が起こっています。

アフリカ系アメリカ人の、アート、文学、音楽、芸術が花開いた全盛だったということです。

多くのアーティストたちは、奴隷制度や、南北戦争を生き抜いてきた世代であり、彼らの子供や孫たちが、生み出す芸術だったということです。

彼らの親世代は文字を習うことも違法だったとのことで、差別的な時代を生きてきた親たちの、想いを、その子たちが、アートとして表現したということです。

当時、アフリカ系アメリカ人にとって、芸術は、自分自身の人間性と、平等を、示すための、手段であり、改革でもあったようです。

乙女座9度では、未来派の絵を描く男という物語が出てきますので、

ハーレム・ルネッサンスについての考察も、価値があるものなのではないかと感じます。

7度で示されたハーレムで、こうした様々なイメージが浮かび上がってきますが、

いずれにしても、支配するものとされるもの。という対比構造が浮かび上がってきます。

人間の欲望が創り出す、虚構の世界。

そこに生まれる、無数の階級と、差別と、優劣と支配。

こうした、虚構の世界は、歴史を経て、全く関係のない遠い視点で、見られるようになった、現代社会の私たちから見たら、「ありえない」「信じられない」世界ですよね。

完全に、人権無視の、虐待世界です。

しかし、その時代に、その社会構造の中で生きている人たちにとっては、それが現実だし、その条件の中で、いかに生きるかにかかっているし、

それ以外の選択肢は、なかったりするものです。

これは、今の、自由になったと見える、私たちの社会でも同じことなのではないでしょうか。

いつの時代だって、どこの国だって、社会だって、制限はある。

支配と、差別はある。

今の世の中が、完全に支配が無くなったなんて、到底言えないと思います。

しかし、それらは、リアルではない。

人間が創り出した虚構です。

沢山の人たちがそれを、信じ、従っているうちはその虚構の世界は続くのです。

しかし、私たちはこの強固に作られた「虚構の世界」を、どうしたって生きることを迫られるのです。

生まれてきた時代、生まれてきた国、生まれてきた人種、生まれてきた社会、

生まれ育った環境、こうした、条件の中で生きること以外に選択肢はありません。

このとてもリアルに見える、造られた世界の条件の中で、私たちは創造を行うレッスンなのです。

7度で示されたハーレムとは、その、造られた虚構の制限の最たる表現ではないでしょうか。

7度では乙女座的な世界観の統合されたイメージが、とても色鮮やかに示されたキーワードだと思います。

現代に生きる私たちも、ハーレムには生きていないけれど、でも、意識的になっているもの、無意識になっているもの含めて、たくさんの条件や、制限の中で生きていると思いませんか?

私たちの社会の中には、もしかしたら、当時以上に、緻密に隠された、支配階級や、レベル分けがあるのかもしれません。

それでも、その条件下の中で、その条件から自由になっていこうとすること。

それが、魂の働きであり、

造られた虚構の世界を、造られたものと気づき、認識すること。

その、舞台装置を生かし、最大限に自分らしく生きる事への挑戦なのです。

ドラマにはまってしまっては、そのドラマが現実と認識してしまっては、

その、地獄絵図の中に、はまり込んでしまいます。

例えば、お昼間にやってる昼メロとかを例にとってみますと、

不倫して、家族を壊して、しまいには、地上のもつれから殺し合いになったりするじゃないですか。ドラマですから、それを私たちはお茶の間からせんべい食べながら眺めて、バカだなー。ぷぷぷ。っと、笑うことが出来ますよね。

もっとこうしたらいいのに。とか、もっとこんな風に立ち回ればいいのに。とか、

大枠から見ているから分かるし、ドラマだと思ってるから、知的に考えることが出来る。

しかし、その虚構のドラマの世界を、現実だと思ってしまったら?

本当に昼メロの世界を、さながらに生きてしまうことになるのです。

私たちの人生は、こうした、造られたドラマの世界を、演じる事であり、

演じ切って見せることなのです。

魂は、どんな条件下にあったって自由だからです。

いくら、肉体を制限の中におかれても、どんな君主も暴君も、

私たちを真の意味で支配することも、拘束することもできません。

ドラマにはまり込んで生きるのか。

虚構のドラマを認識し、精一杯、女優を演じ切るのか。

私たちの人生って、どちらを捉えるかで、180度変わってくるのではないでしょうか。

ドラマにはまって、本当に悲劇のヒロインになってしまうのか。

最高に、壮絶なドラマを生き、自分も周りも感動させて生きるのか。

乙女座は、魂の資質を、形にしていくことを、その方法論を学ぶサインです。

物質界、俗社会という、無数の制限がある、条件下の中で、その条件を

糧にして、使える素材として、お道具として、条件や制限を有効活用していくことを学ぶサインです。

制限があるから、創造ができない、ではないのです。

制限があるから、創造が出来る。

制限は、地球の素材です。創造のための、道具です。

その自分に与えられた無数の制限は、あなたが持つ個性とも言えます。

その制限という道具を使って、創造を行う、レッスンを始めていくのが、

この8度の度数です。

最初のダンスの練習。というキーワードで描かれていて、

創造のファーストレッスンなのです。

ハーレムという、史上最大の虚構の世界、制限の世界、そのダイナミックな大河ドラマを演じる、主演女優、主演俳優として、最初の練習を始めていくのです。

最初はおぼつかないかもしれない。

最初は、うまくできなくて、思い通りの物には程遠いかもしれない。

制限がきつすぎて、諦めたくなるかもしれない。

でも、やってみる。

一歩踏み出してみる。

指を手を、足を、目を、五感の全てを動かしてみる。

そうして、制限を、道具として活用していく方法を一つずつ学んでいくのです。

例えば、大奥という世界の中にいても、いろんな女性のいろんな人生があったのだと思うのです。

運よく、上様に見染められて、お手がつき、お世継ぎを身ごもり、更には、男児を生み、史上最大級の位についた姫がいたとしましょう。

この世の栄華を極めたかのようにみえますが、

上様のお手が付くのは、他にもたくさんの美女たちがいる大奥ですから、

他の女性たちも、次々に、お子を身ごもります。

でも、最初に男児を生んだ自分こそが、将軍の母として君臨するのだと、

地位を譲りません。

しかし、大奥では、お世継ぎ争いで、毒を盛られたり、そもそも古い時代は子供が成人するまで、ちゃんと生きられる率は今よりずっと低かったでしょう。

ドラマにはまり込んでいれば、我こそが栄華、と上り詰めたとしても、

盛者必衰の如し、いつ、坂を転げ落ちるか、分からないのです。

しかし、そんな勢力争いを、淡々と勝ち抜く人もいれば、

そんな争いごとからは一線を引いて、学問や芸術に勤しむ女性もいたことでしょう。

学問や、芸術や、思想哲学の、発展とは、生活や経済の安定があってこそ、

進化していったものであることは、どの歴史をみても言われることです。

日々の労働や食うことに追われて、安定しない状態において、こうした分野が発展することはないのです。

ですから、ここでは、大奥という、物質的安定、経済的保障、という、守られた環境に預かって、自らの、学問や芸術活動に生涯、集中できるということでもあるのです。

制限は、時に、創造のための必須道具となる。

大奥はほんの一例ですが、こうしたことというのは、私たち一人一人の人生にも

言えることなのだと思います。

ドラマにはまり込んでしまっていては、制限を制限としか捉えることが出来ませんから、制限を創造の為の道具に使う、などという、センスは到底生まれません。

しかし、自らの状況や置かれた環境を、ドラマとして眺める、大枠から俯瞰できる目を持つ自分がいたら・・?

自らの制限を最大の創造のための、道具として生かすアイデアが自ずと

生まれてくるはずなのです。

乙女座8度のこの度数は、そうした制限下における、条件を生かした創造を行っていくにあたっての、最初の、レッスンであり、第一歩なのです。