影の向こうを覗く二つの頭

Two heads looking out and beyond the shadows.

サビアンにおける10の数字は、ここまでで5度区分ずつにおける第2グループの最終場面になります。

また、10度は、1度から始まったストーリーが一つ完結する場面でもあります。

タロットカードにおける10は運命の輪のカードで、車輪が描かれてています。

ここで一つの世界観が終わり、ここから新しい世界が始まる。

10のゴールと、1のスタートが同時に起こっている場面なのです。

一つ前の9度では、未来派の絵を描く男というところで、それまでの、虚構の現実に敷かれた体制の中でのみしか生きられなかった、無意識的で依存的な状態から、

ハーレムから飛び出して、自分の個性のみで生きて行こうと試みる場面でした。

それは、かなりのリスクを伴う挑戦だったのかもしれません。

よくペンギンは、氷の上を渡る時、最初に氷を踏んで先頭を切るファースト・ペンギンがいる、と言われます。

その最初のペンギンがうまく渡ることが出来たら、安全を確認した後のペンギンたちが次から次へと渡り出すということです。

ですから、ファースト・ペンギンは、失敗すれば死ぬかもしれないのです。

でも、最初に一歩踏み出す、勇敢なペンギンとも言えます。

このように、既存の守られた場所から飛び出して、己の個性だけで生きて行こうとする行為は相当に、無理がかかることで、もしかしたら、死ぬかもしれないような事なのかもしれません。

例えば、ここまで描かれてきた、メリーゴーランドや、ハーレムといった虚構の世界は、人間の心が創り出したファンタジーであり、怖れの世界でもありました。

人間は、元来、自然状態の時には、個性的で誰とも違い、また、自然の中の一つのシステムとして、という意味では、他の誰とも同じで、あったのだと思います。

しかし、物質的な所有物が増え、持つものと持たざる者が出てくると、ありとあらゆる無数の階級が私たち人間の中に存在するようになります。

こうして、その物質的な階級が自分のアイデンティティを決め、幸せか否かを決める要素となるわけです。

乙女座は、こうした無数の分類の中で、上の階級を目指し、また、自分自身の個としての社会的な輪郭を、くっきりと身に着けて行こうとするのが、乙女座前半のテーマです。

乙女座全体のテーマとしては、真の意味での、個としての輪郭を獲得していくことなのです。それは、社会的なものや俗世的なものを超えた、もっと普遍的な、

個の輪郭なのです。

この個の輪郭をはっきりさせておかないと、次のサインである天秤座が上手く機能しないからなのです。

その、個の輪郭。を獲得するために、まずは、乙女座前半では、社会の中での、階級における分類、輪郭を求めていくのだと思います。

乙女座10度の度数では、二つの頭。というキーワードが登場します。

これは、右脳的、直感的、情動的な女性性的な頭と、

左脳的、論理的、な男性性的な頭、とも言えるかもしれません。

また、過去の頭と、未来の頭、なのかもしれません。

一つ前の9度では未来を描いている男、が出てきましたね。

ハーレムやメリーゴーランドといった虚構の世界が過去の世界だとしたら、

9度の男は、未来の今まで見たことのない世界観をイメージしている訳です。

乙女座は、男の頭、という度数から始まります。

乙女座の作ろうとしている世界はあくまで、論理的に説明できる世界。

現実の世界なのです。

ふわふわとイメージだけして、夢だけ見て、現実の計画に落とし込めない、というのではなく、その描かれた理想を形にするために、しっかりと行動計画を立てて、

日々、コツコツ一歩一歩その、目的に向かって、行動を起こしていくのです。

こういった、とても現実感の伴った人物が、現実(虚構の)を捨てて、

夢に生きようとしているのが9度なのです。

何も分からない夢見る乙女ではないのです。しっかりとした、現実を知った

人物が、その現実を捨てて行こうとしているのが9度です。

よく、江戸時代の吉原の遊女が、吉原から逃げ出すことを「足抜け」と言ったそうですが、吉原において、足抜けは、大罪で、金で買ってきた女に逃げられたんでは、商売も上がったり、ということで、逃げた遊女はどこまでも追われたそうです。

だから、吉原から生きて出るには、花魁なのど高級娼婦になって、お金持ちの

男の人に、見染められて、その男が、その花魁を吉原から娶るために、相応の大金を納める、という方法をとらねばならなかったようです。

ですから、下級娼婦や、お金持ちに見染められなかった娼婦は、一生、吉原から出ることは出来なかったといいます。

そんな吉原から、足抜けした遊女は、もし捕まらなかったとしても、

夜鷹に身を落とすか、野垂れ死ぬかしかなかったのかもしれません。

この10度の度数は、そんな「過去の自分が追ってくる」といったイメージが浮かぶのです。

私たちは勇気をもって、えいや!と新しい人生を生き始めようと過去を捨て、

人生に挑戦を挑む時があるのだと思います。

そんな時、新しい自由な未来への胸躍る、子供のようなワクワク感と、

やってやるぜ!という、気概と意気込みが半分、ある一方、

失敗したら死ぬかもしれない・・という恐怖もまた半分、背中合わせにあるものなのだと思います。

それまでいた世界が、決して幸せな世界ではなかったとしても、虚構のおかしな現実だったと分かっていても、やっぱりそこから出るのは怖いものなのですよね。

この度数で出てくる「影」というのは、その自分の中にある、「半分の恐怖」が追ってくる様子なのではないかと思います。

私たちは、挑戦するとき、新しい未来にチャレンジするとき、いつでもこの、

「半分の影」と共にあるのだと思います。

半分の自分は、前向きで、意気揚々と未来に向かっていこうとしている。

反面、もう半分の自分は、怖れと恐怖でいっぱいで、事あるごとに、

影の怖ろしい様相が、自分を飲み込もうとしている。

その恐怖は、振り払ったって、なくなるものではないし、無きものにしようとすればするほど増大して迫ってくるものなのではないでしょうか。

怖れや恐怖は、それがあると、とても不快だし、無きものにしたいと私たちは

誰しも思うものなのだと思います。

それどころか、自分が恐れていることすら認めたくない、ということも多々起こり、

自分が恐れていることに無意識、何を恐れているのかに完全に無意識の状態になっている、、こういったことが実際多いのだと思います。

しかし、怖れがあることは、悪いことではないのだと思います。

むしろ、健全なのではないでしょうか。

9度で出てくる未来派の絵を描く人物は、男。でした。

ここでは、女性や子供などは出て来ておらず、男が出てくるということは、

現実的思考力を持つ、人物ということになりますから、

生命の樹でいう、構造の柱(向かって左側)の意識に長けているということなのです。だから、世の中のことをよく分かっていて、知識がある分、怖いことも良く知っているということなのです。

でも、いろいろ分かってる上で、それでもチャレンジしたのが、ここまでの物語なのです。

だから、事あるごとに、影の怖れが迫ってくるし、二つの頭がせめぎあうのです。

これは、現実世界に、夢や理想を、体現しようとするときに必ず起こってくる作用なのです。もうセットです。

その、魑魅魍魎とした怖れビジョンが出てきたときに、どう対応するのか。

ここにかかっているとも言えます。

その大蛇のような妄想にとりこまれ、飲み込まれるのか。

怖れ妄想を、良き方向に使うのか。

怖れ妄想はあくまで、妄想であり、それが現実かどうかは、あまり問題ではないのです。自らが作り上げた妄想が、いつだって自分の足をひっぱる、ということです。

しかし、この影の部分の、怖れは、いつだって、自分自身の深いところにある願望を示しているものです。

幾度も幾度も繰り返し現れる、怖れの妄想。

それは、かき消してしまうのはもったいないのです。

怖れが出来ていたら、その怖れの言い分を、よくよく聞いてあげることです。

何を怖いと思っているのか。

何を避けたいと思っているのか。

何が嫌だと思っているのか。

それを目を背けず、じっくりと聞いてあげることで、

自分が真に望んでいるものが見えてきます。

よく、自分の望みを感じ見てみましょうとか、夢やなりたい自分を書き出してみましょう、といった心理ワークなどがあると思いますが、

そんなものは、影の自分と対峙せずして、そうそう簡単に分かるものではありません。

頭の表層でのみ考えた、望みや願望など、上っ面です。

本当に欲しいものは、怖れの中にある、とすら言えます。

だから、怖れを亡き者にしてはいけない。

怖れを無視してはいけないのです。

そこから目を背けずに、まっすぐに向き合って、自分の本当の望みを

そこから知るのです。

そして、その真の望みを知ったら、そこに向かって、絶対に諦めず、

たゆまぬ努力で集中していくのです。

何故、私たちは、継続できないか、というと、それが真の望みではないからです。

望み、願望ワークとかで出てきたような上っ面の望みの為に、

努力を続けることなんて出来ないからです。