未来派の絵を描く男

A man making a fturist drawing.

乙女座第2グループである6~10度までの物語は、乙女座的な思考とロジックの世界、すなわち俗世の仕組みの中に入り込み、その仕組みの中で、生きることを学びます。

乙女座の思考力を育て、この俗社会の中で、どのように生きて行けば良いのかということを、学ぶ場面なのだと思います。

ですから、当然、このグループでは、個々の中にある、荒ぶる情熱や、情動といった感情的なものは、奥底の方へと押し込められることになります。

五感の範囲内である、制限された物質領域において、その制限の中で、

いかに生きるか。ということを学びます。

6度のメリーゴーランドでは、五感の範囲内の想像力で作られた虚構のファンタジーを遊びます。

それは、真に私たちを楽しませるものではないにも関わらず、

私たちは、アミューズメントパークや遊園地を「楽しいもの」「楽しむべき場所」と

思い込まされて育ちます。

本当は、「制限だらけの虚構のファンタジー」は、空しくて物悲しい、と感じる場所なのに・・

私たちの、現実世界とは、このような、遊園地のような、メリーゴーランドのような

虚構のファンタジーのようなものなのではないでしょうか。

皆が、それが楽しいと言っていることを楽しいと思い、これが豊かさだと思わされているものをそう信じる。ことで、成り立っている。

これを、多数者の専制という言葉で現わすことが出来るかもしれません。

近代民主主義では、個々の思想の自由をうたっていますが、より多くの人が賛同するもの、またその時代において、より多くの人の中で常識とされること。が

正しいとされ、それ以外の考え方を持つ、一部の人たちを除外したり、攻撃したりするといったことが起こります。

だから、遊園地なんて、何が面白いの?虚構のファンタジーじゃん。なんて言っちゃうと、大多数の人から、白い目で見られることになるわけです。

しかし、それも時代が変われば、古い時代には多数派であった意見が、

新しい時代では、異端派の一部の人が言っていた考え方が主流になったりするものですよね。

次の7度のハーレムでは、そうした虚構の現実。にどっぷりとはまって生きる、生き方。機構に依存し、体制の中に完全に飲み込まれて生きる、無意識的な在り方。について、たった一言で示しているのが、この7度のハーレムの度数です。

大奥に生きた人たちは、大奥の中で出世すること、お殿様のお世継ぎを生むことこそが、この世の至上の喜び、と信じて疑わず死んでいった人もたくさんいたことでしょう。

その虚構の現実の中での、幸せや成功を求めて止まないとき、私たちは大概、不幸だし、幸せにはなれないものなのだと思います。

しかし、その虚構の現実を、一旦、大局から眺めることが出来たとき、

その偽りの現実を、アカデミー賞主演女優として、演じ切ることが出来たりするのです。

虚構の現実と知りながら、それが自分に与えられた運命ならば、大演技で

演じ切ってやろうとするのです。こうした在り方になれたとき、私たちは、その虚構の現実の闇に堕ちないのだと思います。

それどころか、その虚構の現実の中での、成功や栄光といった誉を手にすることさえ出来るのです。

そして、8度の、最初のダンスの練習では、それまでの、機構とシステムの中に完全にはまり切っていた生き方から、自立した生き方を始めていくためのレッスンを始めるのです。

最初のダンスの練習では、自分なりの個性的なダンス(生き方)をする練習を始めます。

例えば、先ほどの大奥でしか生きられなかった一人の女性が、舞の芸を身に着けて、踊り子として、街で自立して生きていくための、挑戦を始める、みたいなそういう感じかもしれません。

システムの中で、飼いならされて生きていれば、ひと時の安全は保障されるかもしれませんが、乙女座前半の学びは、自分の意志でこの世俗で勝ち上がることです。

乙女座の分類の世界、物質的な差異の世界の頂点に立つことが、乙女座前半のテーマですから、自分の力で生きて行こうとするレッスンを始めていくのです。

そして、この9度の度数では、物事を大局から眺め、自分の力で生きて行こうとする先見の明を身に着けた独立的な人物が、育っている場面です。

サビアンにおける9の数字は、8で完成されたもの、形になった世界観が、

しっかりと、形になったものは、その後、別のものに形を変えていくという作用が働き始めます。

8が、現実化、形骸化する力だとしたら、9は8で解体された現実の後に残る、

心や精神性といった、別の世界観が出てきます。

未来派の絵、とは、誰とも違う、個性的な表現物、ということになります。

それまでは、体制の中で、その中の決まり事や常識に決して背くことなく生きてきた人が、本当は自分はこういうことを考えている、本当は自分にはこういう個性がある、と訴え始める場面なのです。

それは、既存の体制に対して、異端的な在り方かもしれないし、時に、反抗的にすらなりうるかもしれない。

例えば、遊園地なんて面白くないじゃん!って言っちゃうような感じなのだ。

また、ハーレムという体制の中でしか生きられなかった人が、自分の個性を表現するための技芸(ダンス)を学び、その腕一本で、生きていく。

誰とも違う、絵を書いて、自己の意見を表明し、その個性に感動してくれた人が彼の絵を買ってくれることで彼の生活も成り立つ、という構造までもがこの度数ではイメージされます。