噴火している火山

A volcano in eruption.

17の数字のエネルギーは、素数であり、前例のない個性を持ちます。

サビアンにおける17度は、16度から始まった後半の物語の2番目の度数です。

サビアンの16度は、どのサインもそうですが、反対側のサインのエネルギーが流入してきて、前半の物語で、偏りすぎた、一つの方向性に、陰陽の反対側の性質が一気に入ってくることで、偏りを正し、テコ入れされます。

そのことで、16度では、大きく挫折する体験を、大きく一度、崩れ去るのですが、

ここで、反対側の性質に出会うことで、ここからよりバランスに優れた統合へと向かう始まりの度数でもあります。

16度で大きく、挫折したサビアンのストーリーは、17度で、ひとつ、別の境地へ至っていきます。

17は、8の数字の2を土台においたバージョンになりますから、8と拮抗しあう関係になります。

自然数の8は、現実や物質性の完成形ですので、ここでくっきりと手に触れられる形あるものになります。

8はエーテルのシンボルにも象徴されるように、形になったものは同時に解体に入るという、自然界の法則が適応される場面でもあります。

形から、次の存在形態であるエーテルへ。これが8の数字の持つエネルギーです。

17は、8の形ある世界に対して、17は形とは反対側にある世界、

心の世界であったり、波動の世界であったり、イメージの世界であったり、そういったところに意識が向いていきます。

タロットカードの大アルカナの17番は、星というカードで、裸の女の人が、

夜空にたくさんの星々が輝く中で、たゆたゆと水を流している場面が描かれています。

シンボルでは、水が出てくるときは、感情、心を表します。

また女性が出てくるときは、内的なもの、内側の資質、受動性、情緒的、などの性質がイメージできます。

ここでは、裸の女性が出てくるので、より本能的で、元来的な性質であることが見て取れます。

そして、空には満面の星々が輝いていますから、ここでは、感情や心を通して、

宇宙と繋がっている状態がイメージできます。

タロットカードは魂の成長ストーリーですから、16度で、エゴが限界まで到達して

崩れ去った塔の場面を経て、まっさらな更地に、ただ意識のみがある。というような状態、であったり、今まで外側ばかり見ていた、形あるものばかり見ていたところから、今度は、自分の内側の資質にだけ目を向けている状態が、17の星のカードでは描かれているのです。

サビアンの17度の度数でも、そうした星のカードのような純粋でスピリチュアルな性質が書かれていることが多いのです。

乙女座17度では、噴火している火山、となっています。

とても活発で、強い活動性をイメージさせるキーワードとなっています。

これまでの乙女座の物語を振り返ってみましょう。

前半の物語である15度、装飾されたハンカチーフまでで、乙女座は、

物質的な格付けにおけるトップに上り詰め、自らの形ある世界における存在を、子孫の末代まで残し、確固たるものにしようとしてきた、形ある世界におけるサクセスストーリーでした。

しかし、乙女座の元来のテーマというのは、獅子座で接触した魂の片鱗を

ここ乙女座で、形あるものとして、落とし込み、それを五感で触れられるものにするべく、コツコツ努力をしたり、一日一日を計画を立て、働き続ける事で、

自らの本当の意味での個性を、形ある自分として、この社会の中で、その輪郭を

発見していくことでした。

しかし、乙女座の前半においては、乙女座の一方向のエネルギーのみが強く出た状態ですから、まずは、形ある世界におけるトップを目指す、という風になったのだと思います。

そのために、全ての現実を管理コントロールし、目的を達成するために、

自分自身をガチガチの思考の檻の中に入れてしまったような過程がありました。

そんな牢獄のようなおかしな世界が嫌で飛び出したのに、結局、乙女座前半の物語の完結編では、また自分自身でその、おかしな偏った世界をその手で作り上げてしまったのでしたね。

そんな、ガチガチの世界を作り上げる過程で、乙女座は、沢山のものを置き去りにしてきたのだと思います。

全てを、管理コントロールしてきた過程がありますから、

例えば、自分の中にある純粋な想いとか、感情領域の本音とか、

本当はこうしたいのに、とか、子供のような我侭な部分とか、

そういったものを、全部、どこかに押し込めて、目的達成の為だけに、

全てを犠牲にしてきたのかもしれません。

しかし、一つ前の16度のオラウータンのところで、そんな乙女座が置き去りにしてきてしまった、感情や情動や本能をそのままに生きる存在に、ばったりと出会ってしまって、目が真ん丸になってる状態が描かれていたのだと思います。

サビアンで、野生動物などが出て来るときは、本能的な性質や、情動や衝動的な状態で表されることが多いです。

オラウータンはまさに、乙女座がこれまで培ってきた思考で全てを管理コントロールする在り方とは真逆に位置するような存在です。

こんな状態って、私たちの社会における日常でもよくあることなのではないでしょうか。

私たちは普段、大人として、ルールを守り、節度を保ち、周りに合わせて、

自分自身の人生や生活をよりよくするために、いろいろ頭で計画して、

目標を設定し、それに向かって、コツコツ努力を続けてこそ、人生は幸せになれると、信じて、頑張り続けます。

そして、それこそが、正しい生き方だと信じて疑っていないわけですよね。

しかし、あまりにも、全てを計画通りにコントロールし、リスクも変化も拒絶し続けているとどうなるか。

人間は感情と肉体と、思考の三位一体の生き物ですから、あまりに心や体を無視し続けた生き方は、いずれ破綻をきたすことになります。

ここまでの乙女座のストーリーは、支配星の水星に象徴されるような、

とても思考的で、左脳的で、物質的な場面で緻密に頭を働かせ続けて来たような背景があったと思います。

私たちの人生においても、こうしたことってよくあることなのではないでしょうか。

そんな風に、確実性ばかり計算して生きる生き方は、時に、大事な変化を見過ごしてしまったり、チャンスを取り逃がしてしまったり、感情を大切にすることでしか得られない体験を逃してしまったり、あらゆる機会損失に繋がり、人生において、

大きな負債となっていくことがあるのだと思います。

そんな風に、自分の心や感情を犠牲にして、目的の為だけに生きる生き方をしている時に、とても自由に遊ぶように、何も犠牲にせず、遊ぶように生きている人が突然目の前に現れたらどうでしょうか。

その人は子供のように、自由で、我侭も言いたいことも、なんの躊躇もなく言って、

周りの空気も読まず、やりたいように、生きたいように生きているように見える。

しかも、あなたがずっと求め続けて来た物質的な格付けである、例えば、

学歴とか、資格とか、社会的地位とか、何も持っていないのにも関わらず、

とても楽しそうに自由に生きていて、何の不足もないように見える。

今までのあなただったら、そんな人間は、無視するか、気にも留めないような存在で、出会うことがあっても、自分より格付け下と、認定して、見下してしまうような存在なのに、何故だか、その人のことが気になってしょうがない。

最初は、否定的な感情でその人のことを捉えるかもしれない。

その人の言うことなすこと、気にくわなかったり、腹が立ったり、なんだか感情がかき乱される。否定したくなる。

そんなふうに、何故だか、感情をかき乱してくる人、というのがいませんか?

そんなに否定したくなるのなら、その人に近寄らなきゃいいのに、何故だか自分から近寄って行ってしまう、そんな意味不明な言動を自らとってしまうような相手、というのは、あなたが自分自身ですら気づいていないような無意識の扉を叩いてくるような人なのかもしれません。

普段、私たちは、物質的な格付けで、人を判断し、劣等感を持ったり、優越感を持ったりしていると思います。

これこそ正に、魚座時代の乙女座的な課題なのですが・・

そんな劣等や優劣においては、頭では、こんな人が自分より上とか、こんな人になりたい、とか、こんな人が尊敬できる、とか思っている人物像と、

上記のように、どうしても感情を揺さぶられて気になってしょうがないような人物像はかけ離れた資質なのではないでしょうか。

頭では、成功していて、学歴もキャリアもあって、人徳があって、思いやりがあって、ユーモアセンスがあって、高価なスーツを着ているあんな人、みたいになりたい、と思っていたとしても、

あなたの心をかき乱してくるような相手は、もしかしたら、頭もぼさぼさ髭もぼさぼさもしかしたら、ふけだらけて、臭くて、お金も学歴も、何もないそんな人だったりするかもしれません。

でも、何故だかその人の存在が気になってしょうがない、否定したくてしょうがない、

存在を消してやりたいほど、腹立たしい。

そんな相手がもしいたとしたら、それは、あなたが置き去りにしている無意識の感情に対してヒントをくれる人です。

乙女座16度のオラウータンの度数では、そんな、自己イメージの大崩壊が起こっているような場面なのです。

こうして、前の度数で、心の深いところの扉をこじ開けられた人が、この17度で、

今まで溜めに溜め込んでいた、無意識のマグマが一気に噴出し、大噴火を起こしているような状態がこの度数のイメージです。

あなたが今まで、思考やマインドで全てをコントロールしようとした生き方において、

抑圧してきた感情や、本当はこうしたいのに、本当はこれがしたくないのに、

本当はこれが、好きで、本当はこれが嫌いで、そんな無数の、ありとあらゆる、

感情が、大爆発しているのがこの度数ではないでしょうか。

ですから、ここでは、ある意味、大崩壊の後の「浄化」が起こっているのだと思います。

しかし、ここでは、大噴火ですから、穏やかではないのでしょう。

凝り固まったものが、一気に剥がれ落ち、爆発するときは、痛みを伴うこともあるのでしょうし、傷を負うこともあるでしょう。

でも、私たちは無意識を抑圧したままでは生きられないし、

思考領域の管理だけで生きられるほど、単純な構造物ではないのです。

この度数では、それまで目に見える、形あるものだけを追い求めてきたところから、

はじめて、自分の無意識の扉に触れ始め、衝撃的なショックを受けているような場面なのだと思います。