掲げられた半旗

A flag at half-mast.

25度は、サインを5度区分ずつ分割した六つのグループにおける、第5グループの最後の度数です。

サビアンでは、第5グループはそのサインの最も成熟した実りと結果が現れる場面で、25度は、その最終結果のような様相を持つ度数です。

乙女座は6番目の度数ですが、牡羊座から始まって、乙女座までで、一つある種の個人としての人間形成の土台作りが満了するサインでもあります。

牡羊座で個としての意識に目覚め、

牡牛座で、肉体を持ち、五感を持つ。

双子座で、知性を持ち言語を持つ。

蟹座で情緒を持ち、心を持つ。

獅子座で、自我に目覚め、個性を獲得する。

そして、乙女座で、獅子座までで出来上がった、個人としての人格を、

この社会で、試し始めるのです。

そして、乙女座で、この社会の、この物質界での、自分自身の輪郭を、

認識し、それを発見していくのです。

乙女座までで見つけた己の輪郭をもって、今度は、天秤座以降の、

世界や相手と対応する場面が始まっていくのです。

そういった意味では、牡羊座から乙女座までは、魂の学校であり、学生時代です。

そして、天秤座から魚座までは、相手や世界が流入してきますから、

学校を卒業した後の、魂の社会人としての場面とも言えます。

ですから、乙女座までに、己の物質界での、輪郭を発見するために、

このサインのサビアンで見てきたように、あらゆる努力をして、この社会の中での格付けや、物質的ヒエラルキーを上り詰めることに挑戦したり、

かと思えば、他者と協力し合って、共に、目標を成し遂げることを学んだり、

自分と同じように相手にも心や気持ちがあることを知り、相手を思いやることを

学んだり、切磋琢磨、ここまでしてきましたね。

こうして、乙女座22度では王家の紋章を勝ち取り、

23度では、動物のトレーナーとして、後継を育てる事に着手するようになりました。

そして24度では、社会的な野心が満たされた後に、いろいろな野望が削ぎ落され、シンプルにすっきりと穏やかな状態に満たされていく場面が描かれています。

もうこのあたりまでで、魂は、自分の物質的輪郭を発見する道筋が見えてきており、

この物質界での、「実務訓練」を終えて行こうとしている予兆が見え始めています。

例えば、努力を積み重ねて、成功をおさめ、後は後継を育てて、自分は会長の座について、後は従業員たちに仕事を任せていく。

なんていうと分かりやすいですが、そこまで大袈裟でなくても、

私たちは、人生のどこかで、「実務を退いていく」という、認識に至ることが

あるのかもしれません。

同じ仕事をするのでも、生活やお金の為にしなければいけない仕事と、

生活のためのお金や経済的な土台は、もう勝手に回るようにしてあって、

仕事は、自分のライフワークとして本当にやりたいことをやる。というのでは、

全く訳が違うのです。

私たちは、ある何かをやり切った(と自分で認識したときに、)

それまでの活動や、目に見えるものや、社会的なものに対して、

期待するものが無くなる時、というのが来るのだと思います。

それまでは、目標を掲げて、それに向かって精一杯努力をしているわけですが、

どこかのタイミングでそういうものから、手を引いていく、期待がなくなる、というときが来るように思います。

乙女座25度は、掲げられた半旗。となっていますが、半旗、とは、弔意を意味します。亡くなった方などに弔いと敬意を示すために、旗を半分くらいまでしか上げないことなのですが、これを、先ほどの、牡羊座から乙女座までの、魂の学校の卒業式のように、捉えることが出来ると思うのです。

乙女座までで、私たちは、個人としての輪郭を確立する、魂の学校を、卒業していかなければなりません。

牡羊座からずっと、サビアンの物語を見てきて、そのことを十分に感じることが出来るのではないでしょうか。

これは、別れの時でもあり、一つの卒業の時なのだと思います。

この後、天秤座以降は、全く別の世界がスタートしていくことになります。

自分の輪郭を発見したものは、今度は、相手を認識し、相手の個性や、輪郭を

認識し始め、互いにやり取りしあうことが始まるからです。

私たちの人生でも、このようなタイミングが、訪れるのではないでしょうか。

子供の頃や若い時分では、相手がいて、他者にも心や感情があるということを頭では知っていても、真にそのことを分かってはいないものなのではないでしょうか。

ある程度の年齢に至るまで、また、人生において挫折や傷を沢山経験するまで、

私たちはどこか独りよがりで、本当の意味で相手の立場に立つということが出来ません。

そして、そのことこそがまさに、人生を窮地に追い込み、人生をうまく行かなくしている原因だと気付くまでそれは続くのですよね。

そして、少しずつ、それに気が付いていく過程で、私たちは、優しさを知り、

思いやりを学び、本当の意味で他者と心の交流が出来るようになる。

そうすると、何故だか人生が、少しずつ穏やかになり、丸くなり、うまく行くようになってくる。

乙女座の世界で、

この物質界の中で、自分の輪郭を発見し、物質的目的を果たした後に、

それを、一切合切手放していく時というのが来るのだと思います。

乙女座25度で掲げられた半旗は、そんな魂の学校を卒業していく自分への、

弔いであり、別れの時の弔意なのだと思います。

サビアンの12サインという大きな流れではここは、個人の輪郭を確立する乙女座までの流れから、相手と対応し始める天秤座からの流れへの移行なのですが、

もう少し狭い意味で捉えると、社会の中で、野心や野望や、目標達成や、

俗世のしがらみや、お金や人間関係や、このシャバのあれこれを全部やり切って、

卒業していく場面でもあるように見えます。

そして、ここで、別れを告げていくシャバに、一切の負債を残さない。

立つ鳥後を濁さず。の潔さと覚悟がこの度数にはあるのです。

シャバのしがらみや、面倒から、逃げるのではなく、一切の別れを告げていく

ということなのです。

シャバから逃げれば、必ず、その負債は追ってきて、また、同じ場所に連れ戻されるのです。

私たちはシャバでやらねばならないことからは逃げたくても逃げられないし、

やり切るまで、レッスンは続くのだと思います。

だから、この度数では、もう二度と戻ることはないこの場所に、最後の責任を果たして、去っていく。

自分が去った後に、困る人が出たり、問題が残ったり、といったことが

一切無いように、塵一つ残さず、片づけていく。

例えば、今、終活。というのが、高齢の方の間で、認識されつつありますが、

終活、というのは、自分自身が元気なうちでないとできません。

体が動かなくなって、経済的にも何もなくなってしまってからでは、

所有物を片づけたり、家や車や財産を整理したりすることもできないからです。

だから、元気なうちに、自分が亡くなった後や、動けなくなった後に、後の人に迷惑をかけないように、きっちりと片づけて置く。そういう意識の高さの表れなのではないでしょうか。

しかし、こういったことが、ほとんどの人は出来ない訳です。

ものを所有するときにもお金がかかりますが、その所有物を処分するときにもお金がかかります。労力も大変要します。

だから、老いて寝たきりの状態になってしまう前に、元気なうちでないと出来ない。

でも、たいていの人は、元気なうちは、所有物を手放すことは出来ないし、

そういう意識に至りません。

今、こうした、亡き親の後の、家財道具や古くなった空き家の整理に、

大変困る遺族がたくさんいると言われます。

自分のことだけでなく、相手のこと、後に残される者のこと、他者のことを考えるから、自分のやったことの後始末は、自分でつける。

こういう風に考える人が、近年になって、少しずつ増えてきているのだと思います。

棺桶の中まで、家や車や宝石や洋服を持っていくことは出来ません。

私たちは、頭で皆そのことを知っているのに、最後の最後まで大量の所有物を手放せないのは何故でしょう。

自分は肉体ではない。ということを、この度数では気づいていく最初の過程でもあるのだと思います。

それに気づいた人から一抜けしていく。

それに気付くことは、この俗社会への絶望であると同時に、

真に個人として、魂としての自分を知る、最初の希望でもあるのです。

掲げられた半旗は、俗社会への絶望と別れ。そして、

肉体を超えた自分自身への希望を見出す場面でもあるのではないでしょうか。