禿げ頭の男

A bald-headed man.

サビアンにおける28度は、10の1ですから、9で割ったグループ分けの、第4グループの始まりの度数でもあり、第3グループのゴールでもある度数です。

サビアンでは、この28度くらいから、だんだん次のサインのエネルギーが流入してくる流れになります。

ここまでの流れを振り返りますと、

26度で香炉を持つ少年は、物質的な欲望の一切を捨てて、身一つになり、

精神の道へと真摯な学びに入って行く、非常に集中した求道の状態が描かれていました。

そして、27度では、高貴な貴婦人たちが、俗世生活の一切をそのままに、

スピリチュアルな道を、心の底から楽しみ、そのメルヘンやファンタジーの世界を心行くまで、満喫している様が描かれていたと思います。

スピリチュアルな学びに入る初学の段階において、この二つのうちのどちらかの状態になることは、とても多いと感じます。

どちらが正しい、間違っているのでもなく、どちらが、より成熟しているか、未熟かとかそういうことでもなく、

この二つの在り方は、極性であるように思います。

どちらも同じレベルで引っ張りあうような陰陽の作用のように思います。

26度の、香炉の少年は、精神世界の道のことが全く分からないからこそ、

全てを捨ててまでそこに集中(執着)していく姿なのだと思います。

宗教的学びに真摯に入ったものは、その教えが絶対であり、自分の頭で考えることを放棄している風になってしまうことが多々あると思います。

信仰を持つことが素晴らしいことですが、妄信になってはいけないし、

その教えが絶対真理であると決めつけてしまうのは、自分の頭で考えることを

やめてしまうことにもつながってしまいます。

また、27度の高貴な貴婦人の在り方は、柔軟に、なんの執着もなく、

ただ、自然体で、スピリチュアルな教えを楽しめるという意味では、とても素晴らしい在り方ですが、これも、商業的なサービスとしてのスピリチュアルを抜け出ることはありません。

貴婦人たちが持っている、ドレスや、宝石や、素敵なティーカップを、もっと更に欲しがるのと同じレベルで、精神的なものを欲しがっている状態から抜け出ていないのです。

26度は、宗教という「目に見える体系」から、目に見えない真理を求めているのに対して、

27度は、目に見える物を欲しがるのと同じレベルで、目に見えない真理を欲しがっている状態、という意味では、

同じなのかもしれません。

乙女座は、目に見える世界で、自己を確立する学びをしてきたサインですから、

目に見えない世界で、自己の輪郭を発見しようとし始めた26度、27度では、

まだ、スタート地点ですから、やはり、どうしても、目に見える形あるものの中で、

目に見えないものを求めてしまう、という矛盾が生じてしまうのかもしれません。

26度で、アシュラムに入山するために、俗世の持ち物を全て捨てて、金銭を全て寺にお布施して納めるのと、

27度で、貴婦人たちが、スピリチュアルな学びをお金で買うのと、(例えば、スピリチュアルな悟りを得られる護符とか、波動の入ったボトルとか、クリスタルとか、)それは

同じことなのだと思います。

私たちは欲しいものがある時、どうしてもお金を払えば得られると思い込んでいるところがありますし、

目に見えない世界を求めるのに、目に見えるしっかりした体系とか、文字とか、

伝統とか、その世界の権威とかに、なびいてしまう傾向があります。

精神世界の権威の元に弟子入りしたから、これで悟れる。とか、

スピリチュアルな学びや、グッズにこれだけお金を払ったから、アセンションできるとか、そういった、目に見える事柄にお金や労力を投入したという

無意味な安心感を得ている状態です。

しかし、最初はそれでもいいとしても、いつかどこかで、一切のそういったところから、卒業していかなければないけないのだ、とも、思います。

そこには、実は何もない、ということが分かっているのが、この28度の禿げ頭の男の度数です。

生まれつきの感性でそれが分かっている人もいるし、

精神探求の道のりの中で、それが分かってくる人もいます。

禿げ頭とは、そうした26度、27度で、目に見えるものに、がんじがらめになった頭を、全部取っ払った、ぶっぱげた状態を、言っているのだと思います。

この禿げ頭の男は、真実が見えているから、スパっとそれを言ってしまうので、

周りから、引かれるし、怖れられます。

例えば、この人は、大真面目の香炉の少年や、ゆるふわスピ貴婦人たちに対して、このように言うかもしれません。

「そもそも見えない世界のことを探求するのに、金払っても、それ得られなくね?」

みたいなことを、さらっと言ってしまうから、

周りの人たちは、驚愕してしまうのでしょう。

おかしいものはおかしい。

変なものは変。

どこかでみんな、それに薄々気づいているのに、誰もそれを言わない。

だから、世界は、おかしな方向に言ってしまう。

王様は裸だよね。

って、あっさり、言ってしまうような人がいるから、世界は動いていくのだと思います。

この度数の禿げ頭の男は、自分自身の魂の輪郭、見えない世界の真相を知るために、目に見えることや、既知の知識の中にそれを求めて安心したいという状態を卒業した、手放したのです。

結局、それは、既知の知識の中にあるものではないし、最終的には、自分の中にしかないものだと気付いたのです。

ましてやお金で得られるものではないという、当たり前のことにも気付いた状態なのです。

自分の頭で考えること、自分の心で何を感じているか、自分の中にしか真理はないのですから。

禿げ頭の男は、全ての、外側からの知識を取り払って、自分自身で感じ、考える状態に入った人物像なのでしょう。