眼鏡越しに覗き込んでいる教授

A professor peering over his glasses.

サビアンにおける11度は、9ずつ分けたグループ分けにおいては、第2グループの2番目の数字で2のエネルギー的要素が強い度数になります。

5度区分ずつ分けたグループ分けでは、第3グループの1番目の数字です。

11の数字は、2の要素が強い、受動性、対比性、陰陽の性質を持ちながら、

3を土台に置いた1ですから、非常に活力があり、パワフルな度数でもあります。

また11は素数ですから、ほかに例を見ないほどの、個性や、カリスマ性も備えているといえます。

天秤座9度では、人生においての方向性に迷ったときに、過去の偉人たちの生き方に学び、自らの人生に、生かそうとした場面が描かれていました。

私たちは、こうして、学ぶことを通して、またほかの人たちがどのように、窮地を潜り抜けてきたのかについての例をたくさん知ることで、勇気づけられたり、

挫折してもまた立ち上がることができたりするものなのではないでしょうか。

また、10度では、こうして、学びながらも、切磋琢磨、暗中模索した結果、

窮地を潜り抜け、成功を勝ち取り、安全な場所へとたどり着くことが出来た過程が描かれていました。

10は、ある一つのゴールの場面であり、ある一つのスタートの場面でもあります。

ここまでの流れの中で、天秤座は、世界に対して、挑戦を挑んだ結果、

イメージを形にし、そのことで、世界との関りを持つことができたのですが、

同時に世界の大きさを知り、世界と関わりながら、自分のイメージを形にすることの難しさや、膨大な知識がいることを知ったのでした。

こうして、絶望したり、自信を無くしてしまったり、した場面が、

天秤座6度あたりから、描かれていましたね。

サビアンは、どのサインでも、6~10度までの第2グループで、そのサインの性質を感情で感じ切り、深めていく場面が描かれています。

天秤座では、この度数領域で、世界とどのように関り、世界と関わることで生じる、

影響に対して、どのように対処していくのかを、苦しみながらも学んだ場面が描かれていたのではないでしょうか。

私たちは、自らの苦しい経験をもってして、何か大きな壁を乗り越えたとき、

人生の窮地から這い上がったとき、諦めずに食いついて、何かを達成したとき、

今度は、自分自身が教師となり、後に続く人へ、教えることをするようになるのではないでしょうか。

自分自身が体験をもって乗り越えてきたからこそ、教えることが出来る。

また、教えることを通して、世界に対して、意義を唱えたり、世界に対して働きかけていくことが出来る、ということもあると思います。

天秤座11度では、眼鏡越しに覗き込んでいる教授、というキーワードになっています。

この度数では、10度までで、多くのことを経験し、自分なりのやり方を見つけながら、人生の窮地を乗り越え、目標を達成してきた人が、今度は、今、迷いながらも、学び、進んでいこうとしている人に対して、教師として教えている場面が描かれています。

この度数は、眼鏡越しに。となっているように、先生が生徒の目線に合わせて、

その生徒の現在のレベルに合わせて、必要なことを教えようとしている、先生の姿が描かれています。

11の数字は、2が土台にありますから、相手とやり取りしながら、その先へ何か目的をもって訴えかけていくイメージがあります。

11は、奇数ですから、先に進む、上昇する強いパワーがある数字です。

しかし独立独歩ではないのです。世界と、(もしくは相手と)明確にやり取りをしながら、進んでいくイメージです。

教える、という行為は、必ず相手があるものです。

教えるほうが当たり前に分かっていることを、それを知らない人、理解していない人に伝えるということですから、教えるという行為は、実はとても難しいことであり、

技術のいることだと思います。

人間関係においてもそうだと思うのですが、同じ日本語を話しているのに、

まったく共通言語を持たない人たちというのが、いると思います。

母国語が同じであっても、共通言語が全く違う者同士では、いくら話しても話しても、伝わらない、外国語を話しているかのように伝わらないものです。

これがある程度、共通言語を持つ者同士であれば、「話が伝わる」「理解し合える」という感覚を持つものなのではないでしょうか。

普段の私たちの人間関係も、どのくらいの共通言語を持っているか、はとても大切ですし、たいてい、友達になって仲良くなれるような人は、この「共通言語」が多くお互いに、話が伝わるから、友達になれるのだと思います。

あーこの人は、まったく伝わらないな、お互い、外国語を話しているような感覚を持つ者同士はなかなか友達同士にはならないと思います。

教える、教わる、という行為も、これにちょっと似ているところがあって、

先生にとっての当たり前の認識が、生徒にとっては全く当たり前ではないですし、

また、何か専門分野を教えるとなれば、専門用語のようなものも出てきたりしますから、一つの専門用語で伝わることも、その専門用語を知らない人に説明するときは、その専門用語の意味から解説しなければなりません。

また、生徒にとっても先生の言ってることが理解できないように、

先生にとっても、生徒が何を理解できなくて、何を難しいと感じていて、何が分からないのかが、分からないものです。

先生は、そのことを、半分寝ててもできるくらい当たり前になっていることを、

生徒は、それが分からないのですから、先生にとっては、なぜわからないのかが分からない、という、ジレンマが起こったりします。

ですから、教えるという行為は、分かっていることが当たり前の人と、分からないことが当たり前の人との、能動的なコミュニケーションなのです。

先に述べましたように、共通言語をまったくもたない人とは、友達にすらなれない、とお話ししましたが、先生と生徒は、共通言語をまったく持たなくても、

生徒の知りたいという情熱と、先生の、伝えたいという情熱でお互い、歩み寄り、

理解し合おうと、最大限の努力をする行為だからです。

お互いにこうして、最大限努力をすることで、ようやく、一つ一つ、教え、伝え、理解してもらうことが出来るのです。

10度までの第2グループで、体験したこと、また、世界との関りにおいて、たくさんの感情を体験し、そのことで、世界と対応するために必要な知識を学ぶことを通して、また、チャレンジしていくことが出来たこと、このことを通して、天秤座第3グループでは、生きるための(世界と関わるための)知識を積極的に、開発し、深め、探求していこうとするチャレンジが展開されています。