湖面を横切って輝く月

The moon shining across a lake.

サビアンにおける8度は、ここまでの1~7度までの、流れがある種、一つの形となって、形骸化される場面です。

なので、何かしらのここまでの流れの結果。とも言えるようなものが

見えてくる度数でもあります。

6度のゴールドラッシュで、強い感情のエネルギーを爆発させ、描いた夢を掴み取るために、全てを捨ててそこへ挑んでいく過程が描かれていました。

こうして、強い感情をパワーとして変えていく過程で、

7度の、深海潜水夫では、深い誰も見たことのないような無意識の海の底へと、危険を冒しても、潜っていくことになります。

この、深い深い海の底は、ほとんどの人が見たことのない世界です。

そこは、危険な場所だと、みんな直観的に知っているので、

そこまでの危険を冒して、潜ろうとは思わない人がほとんどだからです。

でも、夢を生き、ただ夢をみて終わるだけでなく、実際にその夢を掴み取ろうとまでしている人は、この過程を経なければいけないのです。

夢を見る側から、夢の世界の住人に移行する過程では、自らの深い無意識の海に潜り、そこと、真正面からガチな対話を迫られます。

ここを回避して、その先には進めないからです。

こうして、誰も見たことのないような意識の深みにまで挑んでいったことで、心身はボロボロに傷つき、再起不能なほどに疲労してしまうかもしれません。

また、深く潜ることで、獲得したかったもの、無意識の力、パワーといったものが、そのありかは見つけたものの、それをうまく人生に活用するところまでは、行けたかどうかは、7度の場面では疑問が残ります。

7という数字は、非常に強い前へ進むパワーがあります。

もともと無理なものをこじ開けて、切り開いて、突破していこうとするエネルギーが7の数字にはあります。

だからこそ、深海潜水夫の度数では、危険極まりない意識の深みにまで潜ることが出来たのでしょう。

例えば、私たちは、何かに熱中したり、没頭したりしているときは、

寝食を忘れて、作業に没頭したり、勉強に熱中したりすることがあると思います。

その未知の世界を探求し、知ることが面白くてしょうがない。

また、そこにのめりこめばのめりこむほど、深い意識の世界へと入っていくような、そういう学びや対象と出会うことがあります。

それは、恋愛の場合もあるし、何かの学びや、趣味や、探求の場合もあります。

そうした対象に出会ったとき、私たちは、我を忘れて、そこへのめり込み、

必要な答えを得ようと躍起になります。

しかし、それは求めても求めても、求めれば求めるほど、遠のくというか、

よく分からなくなったりするものなのではないでしょうか。

例えば、ある一つの分野に、のめり込んで、何年も探求する。

それ以外のことは、全部、放り投げて、それに熱中していく。

1日になん時間、何十時間とそれを探求して、気づいたら、何年も経っていた、なんてことがあるわけです。

自分の中では、ものすごく密な時間を過ごしていたわけですが、

それ以外の日常的な現実場面では時が止まってたりするようなものです。

そして、その熱中し、のめり込んだ対象から、何かを得られたのか、というと、なんだか、自分ではあまり、確かな手ごたえも感じられない。

あれだけ、いろいろなものを犠牲にして、のめり込んだ割には、

対した気づきも結果も得られない、というようなことがあるのだと思います。

そうやって、ほかのことをほっぽり投げていたものだから、我に返ったときには、奥さんに愛想をつかされていたり、子供がいつのまにか大きくなっていたり、仕事を干されていたりといったこともあるかもしれません。

私たちはそれに熱中し、のめり込んでいるとき、対象に執着している状態であり、客観視できず、対象が実はよく見えていないのです。

しかし、そのくらいして、のめり込まなければ、見えてこない世界、到達できない世界というのもまた、あるのだと思います。

何もかも捨てて熱中しても見えてこない世界、

でも、何もかも捨てて熱中しなければ見えてこない世界。

それが、蠍座の前半で手に入れていこうとしているテーマなのだと思います。

まずは、やってみる。なりふり構わず熱中して、危険を冒しても深みにはまり、潜ってみる。

それでも見えない、分からない、見えない、分からない、

そうやってやってやって、やっていく。

ここまでが、蠍座7度までの過程なのだと思います。

そして、この8度の、湖面を横切って輝く月、というのは、

深海に潜って潜って、深く狭く深く狭く集中した意識が、ついに、

水面に浮上し、戻ってくる場面なのかもしれません。

何年も潜っていたから、水面に戻ってきたときには、浦島太郎のように、世の中も、自分を取り巻く状況も変わっているかもしれない。

でもそうやって、ほかのすべての要素を断ち切って、集中した数年間があったからこそ、この度数では、何かが見えてくる。

この度数に至る段階では、すでに、対象に対する執着はなく、ある意味、良い距離感で対象と付き合うことが出来るようになっており、

客観的、俯瞰的な視点も、手に入れ始めています。

このように、私たちは、心身の危険を冒すほどに、何かに深く熱中し、のめり込み、戻ってきたときには浦島太郎になっているくらい、深く一つの対象に潜ったときに、手に入れるものがあるのだと思います。

しかし、それは、深海に潜っている最中ではなく、潜り切って、のめり込み切って、やり切って、水面に戻ってきたときに、はじめて、対象を客観的に見る視点が獲得され、言葉にならない海の底の無意識の世界を、言語化することが出来るようになる。

そういった意味では、「どこで浮上するか」「これ以上、行ったら本当に死ぬかもしれない」という、ぎりぎりの「引き際」を見極めるどこか、まともな意識を残していることも必要なことなのかもしれません。