台所という名の小さな経済圏

台所という名の小さな経済圏
— 自炊と投資と、生きる力の話

台所は、小さな経済圏だ。
自炊をするというのは、単に「食費を浮かせること」ではない。
そこには、暮らしを営む力そのものが、詰まっている。
包丁を握る。火をつける。
冷蔵庫の中を見て「あるものでどう作るか」と考える。
人間にとって、最もプリミティブで、最も高度な“経済活動”のひとつだと思う。

外食をやめることだけが目的じゃない。
「自分の体に合うものを、自分の感覚で作る」
これが、自炊の本質。
旬の野菜を選ぶ。安い魚をさばく。
残り物をうまくリメイクする。
こういう積み重ねの中で、
私たちは自分の体の声を聞き直している

自炊とは、感覚を取り戻す訓練だ。
手を動かし、香りをかぎ、火の前で時間を待つ。
それだけで、スマホの通知に支配されていた五感が、
ようやく“自分のペース”に戻ってくる。
だから私は、自炊を「令和の瞑想」だと思っている。

そして最近、気づいたことがある。
この「小さな台所経済」は、
投資という大きな経済活動にも、じつは深く通じているということ。

たとえば
日々の暮らしが行き当たりばったりな人
何も考えずにコンビニで買い、散財している人
忙しさを言い訳に、外食や出来合いで食事を“流している”人
片付けが面倒で、ゴミを積み上げ、部屋が荒れている人
こういう生活をしていると、
投資や資産形成に取り組んでも、必ずどこかで転ぶ

なぜか?
それは、経済の根っこにあるはずの感覚が育っていないから。

  • 時間を待つこと
  • 自分で判断すること
  • 無駄を削ること
  • 毎日の流れを設計すること
  • 未来に備えること

すべて、投資に必要な資質だけど、
実はこれ、台所で毎日やっていることでもあるんだ。

冷蔵庫の残り物を使い切る力は、
ポートフォリオのバランスを整える力になる。
外食を我慢して、地味なご飯を美味しく作る力は、
短期的な刺激より長期的な安心を選ぶ、資産形成の感覚につながる。

だから私は思う。
「料理ができない人は、投資でも失敗する可能性が高い」って。
これは偏見ではなく、構造的な話だ。
暮らしの場で“経済”を丁寧に扱えない人が、
数字の世界で“資産”を丁寧に扱えるとは、正直、思えない。

そして、もっと大切なのは、
片付けまで含めた「始末の美学」
作って食べて、そのまま放置するのではなく、
使った道具を洗い、テーブルを拭き、
流しの排水口を掃除する。
ここまでやってこそ、台所の経済圏は「完結」する。

この「完結させる力」は、
人生のあらゆる場面で効いてくる。
仕事でも、創作でも、投資でも──
やりっぱなし、放りっぱなしでは崩れていく。
始末の力が、次の循環を生む。

私は、今日も自炊をする。
節約のためじゃない。
健康のためだけでもない。
それは、「自分の暮らしに責任を持つ練習」だから。
未来の自分のために、小さな経済圏を回しておく。
それが、資本主義に振り回されない「独立通貨」になる日が、
いつか来るような気がしている。

台所目線のお金と投資の話、noteでコラム書いてます。