「引き寄せ」では説明できないことが、今年起きている
これまで私は、自分の人生を
「好きなことを仕事にして生きてきた人生」
だと思っていた。
18歳で占星術に出会い、
学び、仕事にし、30年近くそれで生きてきた。
離婚後の12年間は、とくに
「稼がなければ生きられない」
という現実の中で、必死に考え、動き、仕組みを作り、
現実を成立させてきた。
だから私はずっと
「自分は好きなことをやって生きてきた」
と思っていた。
でも、今年になって、
それとはまったく質の違う出来事が立て続けに起きている。
欲しがっていないのに、道具がやってくる
今年のはじめ、日本古来の高機(たかばた)を譲り受けた。
着物の反物を織るための、大きな機織り機だ。
機織り機のことを知り始め、高機でないと私の織りたい布は織れないんだな〜ってぼんやりわかってから、
1ヶ月もしないうちに、ご縁で高機がやってきた。
その後、
「いつか90センチ以上の幅で織れる糸綜絖の機織り機があったらいいな」
「今持ってる、両足踏みの糸車のほかに、片足踏みのトラディショナルな糸車も、あったらいいな〜」
そう思っていた。
でもそれは、
「どうしても欲しい!」
「ないと困る!」
という切実な欲ではなかった。
ぼんやりと、
ただ輪郭の薄い思いとして浮かんでいただけ。
そうしたら今度は、数ヶ月で、
今度はスェーデン製の幅広(90センチ)の糸綜絖の機織り機と、卓上機織り機、
そして片足踏みのトラディショナルな糸車一式が、
周辺道具や大量の糸、本まで含めて、
ご縁でまとめてやってきた。
自分から探していない。
これらの道具すべて、お金も払っていない。
行動も、計画も、していない。
ただ「来てしまった」。
今までの人生との決定的な違い
これまでの私の人生は、こうだった。
- 欲しいものは、取りに行く
- 必要だと思ったら、動く
- 投資し、回収し、成立させる
- 欲望と行動と結果が、一直線につながっている
これは「引き寄せ」ではなく、
むしろ 現実対応・生存戦略 だった。
努力すれば、ある程度のものは手に入る。
実際、私はそうやって生きてきた。
でも今年起きていることは、
その回路とまったく違う。
- 欲しがっていない
- 欠乏していない
- 行動していない
- 計画していない
- 意図していない
それなのに、
必要そうなものが、ピンポイントで配置されていく。
この違いは何なのか。
「引き寄せ」という言葉では、もう説明できない
一般的に言われる「引き寄せ」は、
どんな言葉を使っていても、構造はとてもシンプルだ。
- 欲しいものが「ない」という前提
- 今の自分は「足りていない」
- だから意図する
- イメージする
- 行動する
- 手に入れる
つまり
欠乏 → 操作 → 獲得
という構造。
でも、今年の私の状態には、
その前提がない。
足りていない感じがない。
切実さがない。
未来をコントロールしようとしていない。
あるのはただ一つ。
身体の緊張が、解けていること。
「稼がなきゃ死ぬ」という緊張が、ほどけたあと
離婚後の12年間、
私の身体には常に緊張があった。
- 止まったら終わる
- 考え続けなければいけない
- 稼がなければ死ぬ
これは思考ではなく、身体の反射だった。
そして今年、
重度障害の娘が20歳になり成人し、
息子が思春期を越えて、急に大人になり、
「母として常に必要とされる役割」が終わった。
生活も最低限は回る。
命の危機もない。
その瞬間、
生存モードの緊張が、静かに解けた。
この状態で初めて、
世界との関係性が変わった。
世界を「取りに行く」側から、外れたとき
緊張があるとき、人は世界をこう扱う。
- 操作する
- 先回りする
- 失敗を避ける
- 成果を急ぐ
- 価値に換算する
これは悪いことではない。
生きるために必要な態度だ。
でも緊張が解けると、
- 操作しない
- 欠乏を前提にしない
- 今を疑わない
- 成果を回収しようとしない
このとき、
世界との関係は
「取りに行く/引き寄せる」から
「すでに同じ場所にある」 に変わる。
だから、
何かを願って叶うのではなく、
合っているものが、配置される。
なぜ「ぼんやり思ったこと」が、正確に来るのか
不思議なのは、
「ぼんやり」なのに内容はやけに具体的なこと。
これは、
欲望が強いからでも、
意図が鋭いからでもない。
身体のほうが、すでに次の位置を知っているから。
頭で考える前に、
身体のリズムや生活の速度が変わっている。
その位置に合うものが、
ズレなく現れる。
これは「引き寄せ」ではなく「整合」
この現象を無理に言葉にするなら、
引き寄せ(attraction)ではなく
整合・一致(alignment)。
でも、よく言われるスピリチュアルな
「波動が上がった」
とも少し違う。
もっと地味で、もっと身体的で、もっと生活的。
もうズレていないから、摩擦が起きない。
それだけ。
再現しようとすると、消えるもの
この状態は、
- 狙うと壊れる
- 使おうとすると止まる
- 方法論にすると消える
なぜなら、
結果を原因にしようとした瞬間に、
また「取りに行く側」に戻ってしまうから。
これは
努力のご褒美でも
スピリチュアルな特権でもない。
緊張をほどくところまで生き切った人にだけ、
自然に起きるフェーズの変化。
願いが叶う世界ではなく、願わなくていい世界
最後に、いちばん大事なことを書く。
これは
「願いが叶う世界」ではない。
「願う必要がなくなった世界」。
欲しがらなくても、
欠乏しなくても、
証明しなくても、
世界とズレていなければ、
必要なものは、静かに置かれる。
私は今年、それを体験している。
これは、
誰かに勧める話でも
真似できる話でもない。
ただ、
同じ地点に来た人が読んだとき、
「ああ、これかもしれない」
と、身体が反応するための記録として。
