再生アートの思想背景

人類は、産業革命を境に、世界の在り方を大きく変えた。
それまで人の手や自然の力に委ねていた「ものづくり」は、
動力という新しい翼を得て、爆発的な生産の時代へと移行した。

宇宙月の流れで見るならば、
この200年は「地の時代」とも呼べる、物質が主役の時代だったのだと思う。

はじめ、人々は、便利な道具を手にして喜んだ。
生活が楽になり、世界が広がったように感じた。
それは確かに、ひとつの“進化”だった。

けれど、いつからだろう。
「満たされるために持つ」のではなく、
「不安を隠すために持つ」ようになったのは。

物は、いつの間にか、
生きるための伴侶ではなく、
優位を競うための記号へと変わっていった。

持っても満たされず、
飽きるとすぐに捨て、
壊れたら直すという発想すら失われていく。

その結果、地球のどこかで生み出されたものが、
別の場所で山のように捨てられるという、
不思議で、どこか歪な世界が出来上がってしまった。

資源は減り、
ゴミは溢れ、
誰かの「便利」の裏側で、
誰かの過酷な労働が当たり前のように組み込まれていく。

私たちは今、
この構造そのものが、限界に近づいていることを感じている。

けれど、環境問題は、
どこか遠くの偉い人たちが研究して解決する“特別な課題”ではなく、
日々の選択や、心の在り方そのものと、深く結びついているように思う。

尽きない欲望。
他人と比べる心。
創造することを忘れたまま、
消費することで自分を埋めようとする習慣。

もし、この「内側の飢え」に気づくことができたなら、
環境問題は、ほんの少しだけ、違う光のもとで、
見え始める気がしている。

だから私は、
「ゴミ」に目を向けたいと思った。

捨てられてしまった素材。
もう役に立たないとされた布。
誰にも見向きされなくなったものたち。

そこには、
かつての時間があり、
誰かの暮らしがあり、
確かに存在した“温度”が残っている。

私はそこに、
もう一度、物語の居場所をつくりたい。

ゴミから、アートを生み出すこと。
廃材から、暮らしの道具を生み出すこと。

それは「リサイクル」ではなく、
「私たちは、まだ作れる」という記憶を、
ひとつずつ取り戻す営みだと思っている。

豊かさとは、
持つことではなく、
生み出せる感覚の中にあるのではないか。

共存とは、
奪わないことではなく、
分かち合えることなのではないか。

私は、
正解を示したいのでも、
誰かに何かを強制したいのでもない。

ただ、
「こういう道もある」と、
ひとつの灯りを置いているだけだ。

ゴミの中から、
新しい世界の芽が生えることを、
静かに信じながら。