痛みや不調は「自分を犠牲にしてる箇所」に現れる。

身体へのアプローチは「階層構造」でできている

身体へのアプローチは「階層構造」でできている

痛みや不調は「自分を犠牲にしてる箇所」に現れる。

身体へのアプローチは「階層構造」でできている

私はずっと、身体へのアプローチを「階層」で捉えてきた。

いちばん下の階層は、物質的な身体。

痛みが出たら痛み止めを飲む。
咳が出たら咳止めを飲む。
腫瘍が見つかれば、手術で切り取る。

これはすべて、物質レベルへのアプローチだ。

もちろん、命を守る上で必要な場面も多い。
否定するつもりはまったくない。

ただ私は、若い頃から、
この「いちばん下の層」だけを身体だとは思えなかった。

私は、身体には階層があると考えている。

物質の身体の奥に

エーテル体、
気、プラーナ、
エネルギー体、
アストラル体……

といった、
いわば「見えない身体」が重なって存在している。

そして、

上の階層の乱れは下に現れ、
下の階層の異常は、さらに下に固定化されていく。

という構造を、感覚としてずっと持っていた。

だから私は、若い頃から、
物質的な治療だけに頼ることはほとんどなかった。

不調が出ても、

「とりあえず薬で抑える」

ということはせず、

エネルギー体側から働きかける方法を探してきた。

漢方、鍼灸、東洋医学、ヨガ、自然療法、エネルギー療法。
ホメオパシーにも深く触れた。

ホメオパシーでは、
ポーテンシーによって、エーテル体やアストラル体に作用する
という考え方がある。

私はそれを「理論」ではなく、
体感として受け取っていた。

だからこそ、

痛みをただ消すためだけに
物質的アプローチを使うことは、ほぼなかった。

だけど、時を重ねて、
さらに深く身体を見つめるようになっていく中で、
もうひとつのことに気づきはじめた。

それは、

エネルギー体へのアプローチですら、
本当は「末端のケア」にすぎないのかもしれない

という感覚だった。

エネルギー体は、確かに重要だ。

物質に先行して乱れが生じるし、
調整すれば、現象が変わることも多い。

それは間違いない。

でも――

エネルギー体への手当を続けてきたからこそ、
だんだん見えてきたものがあった。

「なぜ、そもそもそこが乱れるのか?」
という問いだった。

不調が出る。
エネルギー体が乱れる。
物質に症状が出る。

その流れの“もっと上”に、

「生き方」や
「意識の使い方」や
「自己との関係性」

があるのではないか。

そんな感覚が、
次第にはっきりしてきた。

そしてもうひとつ、強く思うようになったことがある。

痛みや病気というのは、

「敵」でも
「排除すべきもの」でもなく、

むしろ

自分と対話できる最大の入口

なのではないか、ということ。

症状が出た場所は、

壊れた箇所ではなく、

「ずっと無視してきた場所」かもしれない。

「ここを見て」と言われているサインかもしれない。

だから私は、

ただ不調を叩き消すことには、
どこか違和感を感じてしまう。

もちろん、物質的な処置が必要なときもある。

だから私は、
物質医療を否定しているわけではない。

ただ、

「叩き消して終わり」
「切り取って解決」

という世界には、もう戻れなくなってしまった。

こうして生きているうちに、

私は、以前ほど
エネルギー体へのケアすら行わなくなった。

それは、

手を抜いているのでも、
諦めているのでもなく、

むしろ逆で、

もっと「上流」を見るようになっただけだった。

物質
エネルギー
感情
意識
在り方

このすべては、一本の流れの中にある。

どこか一段だけを叩いても、
根は変わらない。

でも、

意識の階層に触れ始めると、
エネルギーも、物質も、自然と変わっていく。

そのことを、
私は、身体を通じて学んできた。

だからいまの私は、

表面的な健康法にも、
万能とされる代替療法にも、
あまり執着していない。

それらが「無意味」なのではなく、
「最終解答ではない」ことを知ってしまったから。

身体は、
ただの物体ではない。

治す対象でも、
管理する対象でもない。

対話する存在だ。

そして症状は、
壊れた印ではなく、

「そろそろ気づいて」という合図。

私は、そう受け取っている。

健康とは、

何かを足すことよりも、
何かを叩くことよりも、

「どこに生きているか」

という問いに近づくことなのかもしれない。

私は、そう思っている。

では、私はいま、
さらに“上の階層”にアプローチしているのかというと、
たぶん、そういうことでもない。

むしろ逆で、

「階層そのものを意識しなくなった」

という感覚に近い。

以前の私は、

エーテル体に働きかける。
アストラル体を調える。
エネルギーの流れを見る。

そういったことを、はっきりと意識してやっていた。

それはそれで、とても大切な時間だったと思う。

でも今は、

「いま、何体にアプローチしているか」

という問いを、
ほとんど立てなくなっている。

なぜかというと、

もはや
「どの層をどうするか」
を考えなくても、

身体が、勝手に何かをしているように感じるからだ。

(表現が雑だけど、本当にそんな感じなのだから仕方ない。笑)

正直に言えば、

いまの私は、

自分の身体が
何をやっているのか
ちゃんと説明できない。

私は体の専門家でもなければ、
医学的な知識があるわけでもない。

だから、

「これは自律神経が〜」とか
「これはホルモンが〜」とか
そういった説明はできない。

ただ、はっきり言えるのは、

管理していないのに、整っている

という実感だけだ。

以前は、

エネルギーに手を入れる
という感覚があった。

今は、

エネルギーに
「入っていない感じ」すらある。

なのに、
整っている。

これが、いちばん不思議だ。

私はいま、

身体を
「調えよう」としていない。

「治そう」ともしていない。

「働きかけよう」とすら、ほとんど思っていない。

それでも、

身体は動き、
調整し、
回復し、
今日を生きている。

だから、はっきり言うと、

私はいま、

意識的な“アプローチ”を
ほぼすべて手放している。

でもそれは、

何もしていない、ということではない。

むしろ逆だ。

何かを

「する」

のではなく、

何かを

「邪魔しない」

という在り方に近くなっている。

私はいま、

身体よりも

身体の“動きやすい環境”

のほうに、
関心が移っている気がする。

思考が重たくなっていないか。
感情を無視していないか。
無理を正当化していないか。
自分を押し殺していないか。

そういう、

「身体の手前」にあるものの方が、

結果的に、
いちばん効いてしまう。

だから最近は、

エネルギーをいじるより、

生き方をいじる。

調整するより、

ズレないようにする。

治すより、

こじらせないようにする。

そんな方向へ、
自然とシフトしてきた。

そして気づいた。

これが、
いちばん“上流”のアプローチなのかもしれないな、と。

昔は、

「どの層にアプローチするか」

を探していた。

今は、

「どこに立って生きるか」

のほうが、
大きなテーマになっている。

私は、もう、

身体をどうこうしようとしていない。

ただ一つだけ、大切にしているのは、

自分を置き去りにしないこと。

これだけだ。

身体は、

自分を大切にされると、
勝手にうまくやる。

本当に、びっくりするほど、勝手に。

私がいま思うのは、

健康とは

何かを足す技術ではなく、

「引き算の成熟」

なのかもしれない、ということ。

もし今、

疲れているなら、

身体を直そうとする前に、

生き方のどこかが
詰まっていないかを、見てみる。

もし今、

不調があるなら、

敵として叩く前に、

「何か言ってる気がするな」

と、耳を澄ませてみる。

身体は、

いつも最後に
知らせてくる。

でも、
本当は、ずっと前から、合図は出ている。

私はもう、

どの層に触れているのかは、
あまり気にしていない。

ただ、

自分が
ちゃんと自分の中にいるか、

そこだけは、
ときどき見ている。

それで、

あとは、

身体に、任せている。

私がひとつだけ、確信に近い感覚で持っているのは、

痛みや不調は
「自分を犠牲にしたとき」に現れる

ということだった。

「自分を犠牲にしたとき」に現れる

若い頃は、それを言語ではなく、感覚で受け取っていた。

けれど、

エネルギー体を意識した生活を
何十年も重ねていくうちに、

この感覚は、次第に輪郭を持ちはじめた。

痛みや不調は、

単なる“故障”ではなく、

「ここで、自分を削っているよ」
というサインなのではないか。

そう思うようになった。

身体のどこかに不調が出る。

そのとき私は、

「なぜここなのか?」

と問い続けてきた。

ただ、治そうとするのではなく、

ただ、元に戻そうとするのでもなく、

「どこで、何を、我慢していたのだろう?」

と、
痛みと一緒に、
自分に問いかけるようになった。

長くそうしていると、

身体の場所と、

心や意識の状態が、
はっきりと結びついて見えるようになった。

この痛みは、

・我慢している場所かもしれない。
・飲み込んでいる感情かもしれない。
・後回しにしてきた自分自身かもしれない。

身体は、
とても正直だ。

嘘がつけない。

そして面白いことに、

傷んだ場所が教えてくれるのは、

「悪いところ」ではなくて、

「犠牲にしているところ」

だった。

私は、

不調を

「敵」だと思ったことがない。

むしろ、

一番誠実なメッセンジャー

だと思ってきた。

不調は、

「ちゃんと自分の中に戻ってきて」

と言っている。

「そっちじゃないよ」

と、
身体が、
方向を示してくれている。

エネルギー体を意識してきた年月は、

私を

「気づかないまま自分を犠牲にする人生」

から、

少しずつ、
引き離してくれたように思う。

最初の頃は、

気づくのが遅かった。

かなりズレてから、
身体が止めに入る。

「もう限界だよ」と言われて、
ようやく、立ち止まる。

そんな感じだった。

でも、

何度も同じことを繰り返しているうちに、

だんだん、

身体が教える前に、
自分で気づけるようになってきた。

「いま、無理しているな」

「ここで、嘘ついているな」

「本当は、嫌だと思っているな」

そんなことを、

痛みになる前に、
察知できるようになっていった。

そしてこの積み重ねが、

いつの間にか、

私の身体を

「とても秀逸な装置」

にしていったのだと思う。

最近はもう、

「どこが悪い」
「どこを調える」

という感覚すら、薄い。

ただ、

体全体が、

なにかしら勝手にやっている感じがする。

(語彙が雑だけど、本当にそんな感覚なのだから許してほしい。笑)

でもきっと、

それは「体」だけがやっているのではない。

身体、感情、意識、エネルギーの層。

いろんな階層が、

連動して、
連携して、
静かに、
働いている。

そんなイメージがある。

私はそれを、

どこかで

「キラキラ働くシステム」

のように感じている。

派手さはない。

劇的な変化もない。

でも、

日常の奥で、

何かが、ずっと、整っている。

痛みや不調があったからこそ、
私は

「自分を後回しにする生き方」

から、
離脱する必要があった。

身体は、
何度も、それを教えてくれた。

だから私はいま、

健康を

「良い状態を保つこと」だとは思っていない。

健康とは、

自分を犠牲にしないで生きること

なのだと、思っている。

私は、もう、

身体を直そうとはしていない。

ただ、

自分を裏切らないように、
生きている。

それだけで、

身体は、
とてもよく、働いてくれる。

自分を犠牲にしないで生きるは人それぞれ違う

ただ、

「自分を犠牲にしないで生きる」という言葉を聞くと、
多くの人は、こんなイメージを持つかもしれない。

・頑張らないこと
・無理をしないこと
・やりたくないことをやらないこと
・ありのままで生きること
・わがままに生きること

スピリチュアルの世界では、
そうした言葉が、しばしばセットで語られる。

でも、私はずっと違和感を感じてきた。

「それって、本当に“犠牲にしていない”生き方なの?」

と。

私は思う。

自分を犠牲にしない生き方とは、
「単に楽な生き方」ではない。

めちゃくちゃ頑張っていい。
やりたいことのために徹夜したっていい。
汗水垂らして働いたっていい。
人のために走り回ったっていい。

それが「自分の意志」から出ているのなら、
それは、犠牲ではない。

疲れるけれど、
消耗しない。

大変だけど、
壊れない。

問題なのは、

「頑張っていること」ではなく、

「何のために頑張っているかが、
自分の中で死んでいること」

だと思う。

自分を犠牲にする瞬間というのは、

・我慢のために頑張っているとき
・恐れから従っているとき
・評価を得るために自分を削っているとき
・嫌なのに、断れないまま引き受けているとき
・本音を飲み込み続けているとき

そういうときだ。

一方で、

どんなに忙しくても、
どんなに大変でも、

「納得してやっていること」は、
犠牲にはならない。

だから私は、

「楽そうに生きている=自分を大切にしている」

とは、まったく思っていない。

なぜなら、

“ありのまま”でいたつもりが、
実は

・責任を放棄しているだけだったり
・現実から逃げているだけだったり
・他者に依存しているだけだったり
・自分と向き合うことを避けているだけだったり

というケースを、たくさん見てきたからだ。

「頑張らないこと」が、
自分を守ることになる人もいる。

でも、

「頑張らないこと」が、
自分を壊す人もいる。

その逆も、同じだ。

自分を犠牲にしない生き方に、
テンプレートはない。

正解の形もない。

他人の言葉をなぞっても、
本当に満ちるかどうかは、分からない。

「こう生きれば、犠牲にならない」

という万能な生き方は、存在しない。

あるのは、ただひとつ。

「自分が、いま、
どこで自分を殺しているか」

を、見ているかどうか。

自分を犠牲にしているかどうかは、

行動の内容では決まらない。

外から見て、

忙しいか、
暇か、
派手か、
地味か、
頑張っているか、
力を抜いているか、

そういったことで判断できるものではない。

それはすべて、

自分の内側でしか測れない。

同じ「徹夜」でも、

・夢に近づく徹夜と
・恐怖からの徹夜は
まったく違う。

同じ「労働」でも、

・喜びからの労働と
・我慢からの労働は
まったく別物だ。

自分を犠牲にしているかどうかは、

「どれだけ疲れているか」ではなく、

「どれだけ、
自分を遠くに置いているか」

で決まる。

私は思う。

自分を犠牲にしない生き方とは、

「優しい生き方」ではなく、

「正直な生き方」 なのだと。

自分をごまかさない。
納得のない自分で、動かない。
違和感を、無かったことにしない。

人は、どんなに忙しくても、
どんなに働いていても、
簡単には壊れない。

自分を犠牲にしない生き方とは、

「楽になること」ではなく、

「誤魔化さなくなること」

なのかもしれない。

不調は愛の現れ

どれだけ身体と対話してきたとしても、
どれだけ「自分を犠牲にしない生き方」を選んできたとしても、

それでも、

不調への恐れ、
病気への不安、
「もしも」への怖さは、

人間なら誰でも、持っている。

それは、当たり前の感覚だと思う。

痛いのは、つらい。
苦しいのは、怖い。
不自由になるのは、不安だ。

そこに、無理に「悟り」を持ち込む必要はない。

でも私は思う。

不調や病気は、
単なる「不運」でも
「罰」でも
「失敗」でもない。

不調というのは、

魂から届く、
もっとも分かりやすいメッセージのひとつだ。

そしておそらく、

いちばん強く、
いちばん真剣に、
いちばん愛を込めて、送られる合図

なのだと思う。

不思議なことに、

人は、

小さな違和感は、無視できてしまう。

軽い疲れ、
一瞬の引っかかり、
心のざらつき。

「あ、変だな」と思っても、

忙しいから、
面倒だから、
気のせいにして、

なかったことにしてしまう。

でも、
それでも、魂は呼びかけをやめない。

小さな声で届かなければ、
もう少し大きな声で呼ぶ。

それでも気づかなければ、
さらに分かりやすい形でサインを出す。

そしてついに、

痛みや病気という
「現象」に変わって、現れる。

私たちはつい、

不調が起きると

「なぜ、こんなことに」
「どうして、私が」
「早く治さなきゃ」

と、

取り除くことだけに
必死になる。

もちろん、

楽になりたいのは自然なことだ。

治したいと思うのは、本能だ。

でも、そこで

「これは私と関係のない不運」
「たまたま起きただけの事故」

として切り捨ててしまうと、

魂が伝えたかったことには、
一切、触れないままになる。

私は思う。

不調とは、

人生における最大のチャンスの
ひとつなのだ、と。

痛みは、
問いを生む。

不調は、
立ち止まらせる。

病は、

「このままでいいのか?」

という、問いを、
どうしても投げかけてくる。

小さな違和感であれば、
小さな気づきで済んだかもしれない。

でも、

大きな不調として現れたとき、

そこにあるのは、

それだけ大きな、
魂からの愛のメッセージ

なのだと思う。

だから私は、

病気や不調を
美化したいわけでもないし、

「ありがたいもの」として
扱いたいわけでもない。

つらいものは、つらい。
苦しいものは、苦しい。

その現実を、
私は否定しない。

ただ、

そこに、

意味がないとは、思えない。

苦しみの奥には、
必ず

「生き方のヒント」

が隠れている。

それは、

今まで無理をしてきた場所であり、
ずっと後回しにしてきた自分であり、
気づかないふりをしてきた本音であり、

「歪んだままの生き方」

そのものだったりする。

不調は、

「壊れました」という通知ではなく、

「そろそろ、目を覚まして」

という合図なのだと思う。

そして、ここでいちばん大切なのは、

不調を恐れて
「今」をおかしくしないこと。

「いつか病気になるかもしれない」
「将来が不安」
「何か起きるかもしれない」

そうやって、

“起きていない不調”に人生を奪われてしまうことも、
また、ひとつの「犠牲」だ。

私たちは、

痛みが起きる前から
自分を痛めつける必要はない。

不調が来たら、向き合えばいい。

その、
「そのとき」が来たら、
そのときに、
魂の声を、聞けばいい。

今は、

ただ、生きればいい。

今は、

ちゃんと笑って、
ちゃんと悩んで、
ちゃんと暮らしていればいい。

魂は、

ちゃんと必要なタイミングで、
ちゃんと必要なだけ、
教えてくる。

しかも、

思っているよりずっと、

やさしく、
正確に、
的確に。

私は、

痛みや不調は、

人生を壊すものではなく、

人生を、元に戻すもの

なのだと思っている。

そして、

それは、

目覚めの入り口でもあり、
拡張のきっかけでもあり、
愛の形のひとつでもある。

怖くてもいい。

逃げたくなってもいい。

でも、どうか、

「これは意味のない出来事だ」

だけは、
思わないでほしい。

その出来事が、

あなたの魂を
むざむざと揺さぶろうとしているのだとしたら。

不調の奥には、

いつも、

“本当の自分へ戻る道”

が、用意されている。