翼の記憶

私たちには、皆、翼があって、

自由に創造を行うことができる。

そう、かつては出来たんですね。

何故だか、私は、幼い頃から、そうした記憶があって、

でも、その翼が、今は折られている、というか、

翼を広げられないような、絶望感が常にありました。

その違和感を抱えながら、子供の頃から生きてきて、

成人する頃には、出家願望があり、山に入って一人で暮らしたいと

願うようになりました。

今は、なぜ、そのように翼を広げることが難しいシステムになっているのかも、

分かっているし、

かといって、私たちの翼を完全に無くすることもできないことも知っている。

今、絶望している人が少しずつ増えているかもしれませんが、

絶望できるのは、まともな証拠です。

世の中の仕組みや、この地球のことがよく分かって、見えているからこそ、

一旦、絶望するのは、自然なことだと思う。

とかく、ネガティブな感情を持ってはいけないとか、

絶望などいけないこと、という風潮がありますが、

大いに絶望していただきたい。

とても、まともな証拠で、

その、創造的絶望があって、はじめて、

翼のありかと、その広げ方を思い出すことができる。

未だ、見たいものだけ見て、絶望など縁遠いものであれば、

なかなか、光の在処も分からないものなのではないか。

究極の闇を見ることができる人は、究極の愛と光を見ることができる人。

絶望なくして、愛も光も創造性も、分かりようがない。

私にとって、絶望という究極的なネガティブな感情と、愛や創造性といった究極的な

光の感情とが、常に混在していることは、昔から自分の中で日常で、普通のこと。

そして、それが本来の在り方なんじゃないかなって思う。

ネガティブな方にだけ振れすぎているのは、病的だし、

ポジティブな方にだけ振れているなんて、それも嘘くさい。

ポジティブな方ばかり見ようとするから、

自然とネガティブに引っ張られるんだよ。

人は、否定したもの、排除したものに足元救われることになってる。

ギリシャ神話の女神パンドラは、パンドラの箱を開け放ち、

この地球上に、怖れ、恐怖、病気、戦争、死、老いなど、

あらゆるネガティブなものを放った。

そして、最後にパンドラが残したものが、「希望」でした。

闇を見ずして、光も希望も知ることができない。

絶望を怖れないで。

絶望にこそ、光への回路がある。

絶望は才能だ。