妖精に変容するウサギ
A bunny metamorphoses into a fairy.
サビアンにおける23度は、5度区分ずつのグループ分けにおける、第5グループにあたります。
第5グループは、どのサインでもそのサインの、最も成熟した、実りを迎える領域であり、収穫の時を迎えます。
中でも23度は、そのサインの中でも最も脂の乗った、成熟と統合が為されるような度数で、21度で、ハイジャンプして、次なるステージに挑み、
22度で、新しいステージに着地、ステージ移行を果たします。
そして、21度の男性性と、22度の女性性が統合されるて表現されるのが、23度です。
蠍座では、21度の、職務放棄兵士で、この社会の規律や、おかしな皆が迎合しているルールから、一抜けして、逸脱していこうとする場面です。
おかしなものはおかしい、と、はっきりと言い、それを実行する生き方に開かれていくのです。
そもそも、私たちの社会では、おかしなものをおかしいと感じることが出来ない思考停止状態の人も、一定数いるのだけれども、
おかしいと気づいていても、そのおかしなルールに従って生きてしまう人たちが殆どなのです。
おかしなものをおかしいという人は、本当にマイノリティ派で、
それこそ、村八分とか、魔女狩りとかにあってしまうくらい、変人扱いされてしまいます。
ただ、おかしいものをおかしいと言っただけなのに・・人間社会とは、不思議なものですよね。
こうして、21度では、おかしなものを、ただおかしいと言っただけで、
周囲から反感を買い、社会から、はじきもののようになってしまった人が、
22度では、もっと、確実な賢いやり方で、目的の獲物を仕留めていくやり方に気づいていきます。
おかしいものをただ、おかしいとストレートに言っただけでは、
喧嘩になるか、マイノリティとして、大多数に負けてしまうからです。
こうなると、目的を果たせないだけでなく、ただの変人扱いされてしまい、
社会の中で、生きるのも、どうしたってやりづらくなってしまうのです。
ですので、従わないけれども、大多数に押しつぶされず、喧嘩もせずに、
狙った獲物を仕留める方法を考え、知恵を絞り、静かに着実に、誰にも
気づかれずに、獲物に近づいていきます。
そして、確実に仕留めることが出来るところまで、距離を縮めてから、
はじめて、静かに矢を放つのです。
こうすれば、周囲の誰に気づかれることもなく、獲物(目的)を射止めることが出来るのです。
ただ、おかしいものはおかしい、だから俺は従わない!と、わめき立てるよりも、一歩も2歩も、先を行く賢いやり方に開かれているのが、この22度の度数なのです。
このように21度で、おかしいものはおかしいと、はっきりと認識し、それを、貫こうとする姿勢に開かれ、22度では、そのはっきりと認識した意識を、貫くために必要な処世術を身に着けた場面でした。
こうして、23度では、今度は、その荒々しい、自らの中に在る、絶対的な反抗心を、今度は、周りの人たちと軋轢を生まない形で、洗練された表現方法に昇華させていくところまで、発展してくるのです。
蠍座23度は、妖精に変容するウサギ、となっています。
サビアンでは、兎は、本能的で、情動的な性質のシンボルとして、登場します。
本能のままに、動物的な性質として、おかしいものはおかしい、
嫌なものは嫌、という本能的な性質を私たちは誰しもが持っていて、
この本能の声が発することを決して忘れてはならないし、聞こえない自分になってしまってはいけないのだと思います。
しかし、私たちは、この本能のままに行動してしまうと、
たいがい、他者とうまくいかなくなったり、社会負適合者として、
つまはじきになってしまったりするのもまた事実だと思います。
周りとはうまくやれたほうがいい。
他者とは円滑に繋がっていられた方がいい。
だから、この度数では、兎という、本能的な性質を、人間としての洗練された性質に昇華させていくのです。
例えば、自分の中にある、荒々しい反抗心や、衝動を、
パロディや、ユーモアとして表現したのはチャップリンだし、
文学で表現したのは、シェイクスピアや、芥川龍之介だし、
絵画で表現したのは、ピカソや、ダリです。
彼らは、自分の中にある、大多数の人とは違う個性的な感覚を、
自分が最も得意とする方法を用いて、アートとして、笑いとして、文字として表現したのです。
それは、生きてる間には、その変人ぶりを認められず、
死んで何年も経ってから、その芸術性に気づかれるアーティストもたくさんいますよね。
たいていの場合、自分の中の、まっすぐな本能的な感覚や、
おかしいものはおかしい、というストレートな感覚を忠実に捉えている人は、社会の中では、変人、か狂人という位置づけをされやすいものです。
だから、表現方法がどうか。が、大事なのです。
一般の人々に、受け入れられないその、個性を、受け入れられるか、拒絶されるかのギリギリなラインで、表現できた人が、奇才とか、天才と呼ばれるようになるのです。
だから、狂人と天才は、紙一重、とよく言われるのでしょう。
いったん、天才扱いされれば、今度は、昨日まで狂人だった人が、
明日からは、天才扱いされるようになる。本人は何も変わってないのに・・
それが社会というものです。
マイノリティが時代を率先するのだけれども、
マジョリティに、受け入れられる必要がある。のです。