渓谷の嵐
A storm in a canyon.
27の数字は、土台に3を置いた、9の数字のエネルギーです。
この度数をもって、9で割った、第3グループが終了となり、次の28度から新しい第4グループへと転じていきます。
9の数字は、8で形骸化したもの、形になったもの、固まったものを、エーテルへと昇華し、別の次元での存在形態に表現されていきます。
それは、心の世界とか、精神の世界とか、物質的な目に見える世界とは、少し違う次元にある、物語の完結編になります。
27度では、土台に3がありますから、統合的な形での、物語の解脱が起こります。サビアンにおいての27度は、あと3度で、そのサインが終了することもあり、
このあたりから確実に次のサインのエネルギーを感じ始めています。
26度では、今いるサインをしっかりと、お腹いっぱいに味わい尽くし、満足し尽くすことで、27度で、それを放していき、空いたスペースに、次なるサインが入ってくる。
牡羊座の最終では、五感の要素が加わり、意識が肉体に入る過程が描かれていました、牡牛座の最後では、牡牛座の才能と専門性で作られた文化を、今度は双子座的な商売とか商い的なサービスとして、落とし込んでいく過程です。
そして、双子座の最後では、双子座の情報とか知性を、統合して、今度は、たくさんの人の心を打つことで流行りやビジネスを起こしていく過程として、蟹座が流入していました。
そして、この蟹座の最終章では、一つ前の度数で、蟹座の求めるものである、
心の豊かさと、その大切な仲間と安心して生きるための、物質的豊かさを手にして、蟹座という世界の学びを味わい尽くしたのでした。
そして、ここでは、少しずつ、獅子座としての、獅子の意識が流入してきます。
蟹座が、主体性を手放して、個を集団に埋没させていく過程だったのに対して、
獅子座は、個の意識において、創造と表現を行うサインです。
26度では、物質的な豊かさを手に入れ、大切な仲間たちと豊かな生活を送っていましたが、この豊かな生活とは、実際的には裏を返せば、自らの努力によって手に入れたもの、というよりかは、たまたま、自分たちの生き方が世間から面白がられて、興味の対象に乗り、たまたま棚から牡丹餅的に、ムーブメントに乗った結果、手に入れた、豊かな暮らしでした。
それは、かつて求めたものではあったけれども、蟹座の彼らはいったんそうした物質的豊かな生活を、否定し、山里に入った世捨て人だったはずです。
否定したものが、運によってあっさり得られてしまった。
これって、なんだか、例えば、お金儲けや贅沢を忌み嫌い否定し続けてた人が、実はお金が大好きで、たまたま当たった宝くじで、あれだけお金持ちを嫌ってたのに、お金を持った途端、いきなり贅沢三昧し始めた、という展開にも似ている気がします。
自分の力によって豊かさを手に入れた人や、きちんと自分の意志や考え方を持っている人ならば、きっと、どれだけお金を持っても、成功してもいきなり暮らし向きが派手になったり、贅沢三昧しだしたりはしないと思うのです。
自然体な形で、常にお金と付き合っていけていて、豊かなんだけれどもシンプルで、洗練されている。
しかし、蟹座の物語においては、おそらく、いきなり手に入れたとてつもない成功、それは、必ずしも、幸せだけをもたらしたのではなかったのかもしれないなぁと思います。
例えばですが、彼らの生き方に世間の皆が興味を持って、これは金儲けになる、と狙った、どこかの会社が、大金を払って、彼らのスポンサーになったかもしれないし、彼らを映画にする権利をどこかの映画会社が買ったかもしれない、
また、彼らの生活スタイルを真似するためのグッズやファッションをプロデュースする人たちが出てきたかもしれない、
そこには、莫大なお金が動き、思惑が働き、そして、契約と規制を生んでいったかもしれません。
彼らは、主役になったけれど、飼い犬にもなったかもしれないのです。
それは、一見、豊かな暮らしに見えるかもしれないけれど、自由が何もない暮らしなのかもしれない。
自らの個性を、表現しているようで、実はその表現されているものはもはや彼らの独自のものではなく、彼らを使ってお金儲けをしたい人たちの思惑通りに動かされているだけの表現なのかもしれない。
もともと、蟹座の学びとは、創造することではないし、個を表現することではなかったので、集団の意識に沿わせて行くということでは、そういう在り方も成功なのかもしれません。
しかし、ここはすでに27度まで来ていますから、次のサインの獅子座のエネルギーが流入してきてるのです。
ですから、豊かな暮らしと、贅沢三昧だけ与えられて、指示された個性を表現するだけの生活が、だんだんと窮屈になってくるのかもしれない。
例えば、売れっ子のロックバンドのメンバーが、自分たちの作りたい曲ではなくて、レコード会社に指示された「売れる歌」をずっと作って、レコードのヒットを飛ばし続けたり、アーティストとしてもっと、自由な表現をしたいのに、
決められた枠の中で、自らを演じなければならなかったり、
そういうことって、よくあるのだと思うのです。
一般の多数の人にうけるように、そして、たくさんのレコードが売れるように。
特に20世紀までの集合無意識的な社会においては、そういうことがいっぱいあったし、それが普通だったのだと思うのです。
音楽はもはや芸術でもアートでもなんでもなくて、コピー音楽になり、
ファッション化されていった背景があったと言います。
そして、売れっ子アーティストたちを使い尽くし、使い切って流行が終了したらまた次の、売れっ子を作っていく。
そういうものに一般の大衆が飛びついた時代。
今もまだその名残りは、大きくありますが、だんだんとそういう在り方が、
通用しなくなってきている背景が21世紀の近年にはあると思います。
自分が表現したいものではなく、大衆が求めるものを演じる。
これは、蟹座的な世界観においては、オーライなのかもしれませんが、
獅子座が流入しているこの場面においては、どうにも、腑に落ちない、
我慢がならなくなってきているという印象なのかもしれません。
ですからここでは渓谷で嵐が起こっているのです。
感情が吹き荒れて、自らの主張を強く言い放っているのかもしれないし、
こんな作られた贅沢なんかいらない、といってるのかもしれないし、
そもそも、自分の努力で手に入れた豊かさじゃないから、使い方も扱い方も分からなくて、豊かさが返って、彼らの心を荒ませているのかもしれないし、
物欲に飲み込まれてしまったり、それによって大切な仲間と仲たがいして
しまったり、いろんな嵐がここでは起こってきているのかもしれません。
それは、どちらにしても、蟹座の集団性を捨てて、個の意識を確立していこうとする獅子の意識の流れが始まっているからなのだと思います。
たまたま手に入れた成功や贅沢ではなくて、自らの表現と創造性によって今度こそ、創造的な自己として生きてみたい、そういった、底知れない強い欲求のようなものが、出てきている場面なのではないでしょうか。