大きな十字架が掲げられる

A large white cross upraised.

サビアンにおける2度は、1度と陰陽関係にあります。

1度はそのサインがスタートするにあたって、最もシンプルで凝縮した形で、サインの性質を、現わしているものです。

1度の1の性質は、次なる2と対になるのです。

1で発露されたものを2度で受け取る。1度で、行われたことが、2度で結果となって現れる。

そういう関係性を持ちます。

乙女座のエネルギーが勢いよく現れた1度の性質に対して、2度が回答を出してくるのです。

乙女座2度は、大きな十字架が掲げられるという、キーワードです。

十字架というと、何が思い浮かぶでしょうか。

まず、十字は4元素であり、地球のシンボルであり、物質界の法則についての象徴です。

また、十字架はキリスト教の象徴でもありますね。

1度の男の頭で、完全に、目に見えるもの、手に触れられるもの、理論で説明できるもの、そういう物質的な性質に対して、一点集中していく在り方が描かれていました。

1度の男の頭では、目の前にある「形あるもの」の形状や性質、そして他との違い、について、とても興味を巡らせている様子が見て取れます。

ここでは、見えるものが全てであり、時間と空間の法則の中で、作業を繰り返していく段階です。

私たちの物質界は、時空の法則の中にありますから、この時間と空間の中で、

作業を繰り返すことでしか、イメージを形にすることは出来ません。

これが、こうした時空の法則がない未知の世界だったとしたら、わざわざ、そんなめんどくさい繰り返しの作業などしなくても、

想ったらハイ。と、イメージしたことが瞬時に現象化されるし、そこは連動しているものなのかもしれません。

もしかしたら、思い描いてから形になるまで、ここまで繰り返しの作業を必要とする私たちの地球は、とても特殊な面白いシステムなのかもしれません。

例えば、お腹が減ったから、ご飯を食べたいと思ったとします。

それで、今度はご飯を作ろうと思い立ちます。

そして、更に、お米をといで、鍋に火をかけて、野菜を切って、お肉を焼いたり、

いろいろな作業を通して、ご飯が出来上がります。

もしくは、食材が冷蔵庫になければ買いに行くところから始めないといけないかもしれません。

ごはん一つとったってこの調子ですから、日々の生理的な欲求のみならず、

魂の意志だとか、長期的な目標だとかを形にしたいと思えば、それは長きにわたる、繰り返しの作業を要するのです。

そして、その一つ一つの作業は、一日にして成らず、また、私たちの身体は、ずっと作業をし続けられるようにも出来ていません。

休息を必要とするし、夜が来れば眠らなければいけないし、無理をすれば病気にもなる。

また、毎日、お腹が減るし、食べて、寝て、排泄してというこうした肉体的な生理現象をこなしながら、自らの意図。に向かわねばならない。

なんて、まどろっこしいことかと思いますが、こういったことこそが、私たちは

体験したくて、ここにいるのかもしれないなぁと思うのです。

そうした、時間と空間の法則の中に、降り立ったのが、乙女座1度の男の頭だとしたら、その物質界の法則に、ものすごい興味で開かれたとしたら、

(シュタイナー12感覚論の乙女座は視覚を司るというお話をしましたが、

他の五感の感覚器官が、内側に埋没して出来た、いわゆる内面性に繋がろうとしたのに対して、視覚は、脳が好奇心から突出して形状を変えて外に出て行った期間だということです)

下界のあらゆるモノ、景色、形状、そしてそれらの法則に対して興味が開かれていく様子が1度だとしたら、2度ではその物質界の法則(十字)が、

生きる上での前提になる。

この度数はそういう度数なのだと思います。

魂よりも先に、物質界のルールが来る。

これは、どちらかが先か、という問題でもないのですが、ここでは、そこに取り込まれる、ようなそんなニュアンスを感じさせます。

魂の意図とか、創造とかって、どうしたってこの物質界の法則に沿ったところでしか為すことが出来ない。

時間を無視して生きることはできないし、空間の感覚は、私たちをずっと移動の概念として制限してきました、ネットの発展によりだいぶ、空間軸は超越されてきましたが、それでもまだ、人体が空間をワープするには至ってません。

また、肉体を無視して生きることはできないし、どれだけ意志の力が強くて、

肉体を無視して、駆使し続けたところで、所詮遅かれ早かれ、ぽっきりと限界が来て、一歩も動けなくなるのが関の山です。

ですから、私たちはこの世界の中で何か、意志を為そうとすれば、この物質界の法則に閉じ込められるし、その法則に、詳しくなり、謙虚になり、沿うていくことをまずは、求められる。

十字は物質界の法則です。

ですから、ここでは、物質界の法則が、高々と掲げられ、最も重要な指針として、

示されているのだと思います。

また、十字架というと、キリスト教ですね。

魚座時代の意識は、反対側の乙女座のレッスンを通して、学ばれるということを、

前の度数で書きましたが、乙女座の、物質的な細かな差異を通して、私たちは、

互いをランク付けし、分類し、細かなカテゴリーに人を分け、格付けしてきたのが

魚座時代のこの2000年間の背景でもあったと思います。

魚座時代の始まりは、キリスト以降です。

紀元前のことを、BC(Before Chirist)、紀元後のことを、AD(Anno Domini)と

表記しますね。ADは、ラテン語が変化したもので、直訳すると「主の年に」となります。

魚座時代は、キリスト意識と共に始まったのです。

仏陀も少し前になりますが、誕生しています。

キリスト教は愛の宗教、仏教は慈悲の宗教などと言われますが、

魚座時代は、私たちが、自らの無意識性に気づき、自分と同じように他者も存在することを知り、慈愛の心を獲得することがレッスンなのです。

その慈愛の意識を獲得するために学ばれるのが乙女座意識のレッスンで、

実際に私たちは、この2000年間で、かつてないほど、殺し合いの殺戮の歴史を繰り返してきました。

勿論、古い時代でも、争いや略奪はあったのですが、

魚座時代の宗教戦争こそが、人類最大の死者を生み出した戦争とも言われています。

最初は、食べ物や領土を奪い合うために、殺し合い、

更には、宗教という、自らの存在の正しさを振りかざすために他の存在を抹殺する。

私たちは、無意識の動物性であった場合、このようなことをしてしまう生き物なのです。

また、人種差別や、奴隷制度も乙女座のレッスンだと私は思います。

私たちは、それぞれにかけがえのない、魂の存在なのに、

肌の色とか、国籍とか、学歴とか、お金をどのくらい持っているかで、

非常に細かいランク付けを為されてしまいます。

どこの国に生まれたか、で、まず、だいたいのランクが決まってしまう有様です。

そして、優劣が決まり、お互いに蔑み、優越し、劣等する。

蔑んでいるものは、そのことに無意識で、蔑まれているものは、絶対的にそれが分かる。

他者をバカにしたり、優越したりするのは、とても古い人類の意識形態だと思います。

ですから、魚座時代の2000年間は、この蔑まれたもの、奪われたものが、立ち上がり、戦う場面が幾度も起こり、誰しもが当たり前に持っている魂の存在性を

証明してきたのです。

キリスト意識から始まったパイシスの時代は、このように、何度も何度も乙女座レッスンの間違いを繰り返しながら、少しずつ少しずつ、成熟へと向かっていきました。

しかし、まだまだ、乙女座のレッスンが終わり切っていないことは、地球レベルでみれば、明らかです。

蔑み、奪い合い、強きものが弱きものをねじ伏せる、こうした意識はまだまだ

私たちの世界から無くなっていないのです。

ですから、この度数の、もう一つの意味としては、私は、魚座意識を獲得するための乙女座のレッスンが始まりますよ~という、明示のようにも見えるのです。