酋長に自分の子供の命乞いをするインディアンの女性

An Indian squaw pleading to the chief for the lives of her children.

サビアンにおける29度は、土台に3を置いた、11の2の数字です。

2のエネルギーを持ちますので、両極の性質のものが、半々ずつ起こっていて陰陽の反応が起こっている度数です。

サビアンでは29度は、次の30度でサインを終わらせていく一つ前の度数ですから、ここでは、完全に次のサインが流入してきており、

今のサインと次のサインのエネルギーが、五分五分で現れており、

陰陽作用が働いています。

今のサインを終わらせて、次のサインへ移行していくための、二極作用が起こっているのです。

蠍座29度では、次のサインの射手座が流入してきていますから、

蠍座の水のエネルギーと、射手座の火のエネルギーが、化学反応を起こしています。

27度までは、まだ水のエネルギーが勝っていたのだと思います。

ですから、26度で、自立して生活を切り開いたインディアンも、

27度では、古巣の仲間に、自分の成功を吹聴したくなるのも、

心の中に、水のエネルギーである、哀愁とか虚栄心とかそういうものが残っているからでしょう。

そして28度では、いよいよ魂(火の性質)に帰還していこうとする場面ですが、妖精というキーワードが出てきており、エルフは、自然界に住まう精霊たちですから、ここではまだ自然界の法則の範疇にあることもイメージさせます。

意図は魂に向かっているけれど、依然として、身を置いているのは、自然界の法則の中に在る、とも考えられるのではないでしょうか。

自然界の地のエネルギーにあるとき、私たちは感情(水)のエネルギーに媒介して、魂と接触します。

私たちは肉体を持ち、地と水の法則の中にありながら、思考(風)とか、

魂(火)の意図を、下方へと反映させる。それが創造です。

でも、思考(風)とか、魂(火)との接触を忘却し、地(肉体)と感情(水)の性質にのみ生きてしまうと、そこは牢獄となります。

蠍座29度は、酋長に自分の子供の命乞いをするインディアンの女性

というキーワードになっています。

蠍座29度は、全サビアン度数の中で最も、究極的な度数といってもいいかもしれません。

古い時代、占星術のサインが8サインしかなかったことがあったというのを聞いたことがありますが、牡羊座から蟹座までの私軸(自分という人格の土台を形成する場面)、そして、獅子座から蠍座までが、相手軸(相手との関りによって自分を知る場面)、そして射手座から魚座までがトランスパーソナル軸(私とあなたの二極の世界が統合され、陰陽の法則を超えて魂に接触していき、ソーシャル意識を獲得していく場面)

という風に考えると、蠍座までで、私たち人間のストーリーは完結することもあり得るのだと思います。

どうあがいたって、この自分で作りあげた、心の牢獄から出ることが出来ない。そこにからめとられたまま、そこから出られない。

私たちの、心の阿頼耶識とは、そのくらい複雑なものなのです。

一筋縄ではいかない。

古い時代、私たちはずっとそうやって生きてきたのかもしれない。

そうやって、私たちの命とカルマは世代を超えて受け継がれてきたのかもしれない。

だから、何度も転生を繰り返して、幾度もの人生を通して、一歩ずつ、解脱を目指していく。

そのくらいのものだ。

1800年代より、それまで肉眼で見ることが出来る、土星までしか

なかった私たちの世界に、天王星以降のトランスサタニアンという概念が入ってきました。

これたの天体は肉眼では見えず、でも、私たちの集合無意識に甚大な影響を及ぼしているもので、その影響は歴史を作ってきたほどです。

これらの今まで見えなかった天体が見えるようになったことで、私たちの意識にも、それまで無意識に翻弄されていた世界が、認識できるようになってきた、意識的にそれに気づくセンスが出来てきた。

この頃から、世界は飛躍的に、変貌してきているのです。

1800年代は、産業革命やフランス革命、アメリカ独立の後、

資本主義社会が本格化し、大量生産と、都市化の時代が始まった頃です。

そして、その200年の地の時代を経て、今、風の時代に入り、

モノの社会から、データとインターネットの社会へと移行しています。

私たちの時間と空間との関りが、急速に変化していっているのが今、なのです。

こうした中で、かつては、蠍座の物語までで終了していた私たちの魂の物語の続編を生きる人たちが、飛躍的に増えていっているのも今の時代なのではないでしょうか。

気づく人が増えてきた。

目覚める人が飛躍的に増えて、世界に変化を起こしている。

それが今、です。

蠍座29度では、部族の酋長に母親が自分の子供の命乞いをしています。

28度で、自らの魂のホームへ帰還しようとしている場面が描かれていましたが、これは、同時に、既存の共同体とのしがらみや、それまで深く関わってきた世界構造との断絶も意味しています。

27度の行進している軍楽隊では、まだ、水のセンスが十分に残っており、

古巣の仲間に自分の成功を吹聴しているあたりですから、古き阿頼耶識とは、断絶しきれていないのです。

だから、審判は下らなかった。

でも、28度では、もうさんざんに、自分の中に在る心の阿頼耶識を意識化し、それを断ち切っていくまでに成熟したのです。

成熟してしまったから、下る審判。というものがあります。

今度は、その古き心の阿頼耶識が、最後の阿鼻叫喚がはじまり、怒号のごとく、元居た世界へ引き戻そうとする作用が働くのかもしれません。

それは、古巣の世界で深く、しがらんでいた人間関係かもしれないし、

共同体やコミュニティとの関りかもしれないし、社会機構とか、ルールや決まりを通してかもしれないし、形は様々であれ、

絶対にあなたを離すまいと、古い世界からの、怒号の制裁が下るということが起こるのかもしれません。

母親というものは、自分の命を懸けて、自分の子供を守ろうとする生き物です。自分の子供を守るためなら、自分が死ぬことなど何も怖くないのです。

それが母親という生き物ですから、もしも、自分の子供に何か危害が加わるのなら、自らが魂のホームに戻るあと一歩手前にあったとしても、それを諦めてしまうこともいとわないかもしれない。

酋長が許してくれるのなら、古巣に引き戻されて屍のように生きることも

厭わないかもしれない。

そのくらいの、壮絶な引き戻しが起こっているのがこの場面ではないかと思いますし、

また、逆に考えると、子供を守るためならば、自分の命を捧げることも厭わない、地球のかりそめの姿である、この身(肉体)を捧げることも、

本望だ。そのくらいの覚悟と愛がないと、この、自分で作った心の牢獄から

抜け出していくことは不可能なのかもしれない。

ここでは、母親という生き物を、象徴にして実例にすることで、物語を分かりやすくしているのだと思います。

自らの愛とか、志とか信念とか、大切な者を守るためならば、

肉体はいらない、それよりも大切なもの(魂)がある、と気づいているものにしか、心の阿頼耶識の出口は、提示されない。

一向にその出口の在り処は、分からない。ということも、物語っているのではないでしょうか。

酋長がどのような審判を下すか分からないけれども、でも、酋長の心を動かすものが唯一あるとすれば、母親の命がけの愛。なのかもしれません。

そこで初めて示される、魂へのホームへの、心の牢獄からの出口が

見えてくるのかもしれません。