アヒルの池と、その子供たち
A duck pond and its brood.


30という数字について考えてみましょう。 3と0で構成される数字で、9進数では、第4グループの3となりますので、 土台に4のエネルギーがあります。

そして、3と0の組み合わせからイメージするに、3が真空化する、というか、 摩耗状態なるというか、3が極まって、何か別のものに形を変えるような、イメージも浮かびます。

ルディアは、30度を、どのサインにおいてもそのサインの性質を吐き出す、吐露するといったような表現で解説していたと言いますが、
4の数字が土台に在ることを考えても、4のグループというのはこの現実世界で秩序を作り、物質的な四つ足で、しっかりと、大地に立つための仕組みや土台を整える世界観のことです。


そこに3という、創造性や生み出すことに関わる数字が加わりますので、 ルディアのイメージする通り、確かに、ここでは、もういろんなことが形骸化されすぎて、あとはもう、全てを吐き出し切って、別のものへと、姿を変えていくところへ 来ているように思います。

サビアンは、全て30度までですので、この度数をもって、一つのサインが終了するわけですが、30度という性質は、感動のフィナーレといったことよりかは、 もうそのサインの性質をいろいろやり切ってきて、そのサインの持てる可能性については、全て体験しつくしてきて、もう次のサインへの期待が高まっていて準備は整っている、といった状態でしょうか。


だから、ここでは、そのサインの性質をある意味、感動的な要素でも学び深い様子でもなく、ただあけっぴろげに、そのままに、出し切って終わらせていく、

12のサインにおける、全ての30度を確認してみてほしいのです。 どれも、そのサインの性質を、どちらかというと陳腐に、大げさに、やりすぎなくらいに、表している物ばかりです。


4という物質的な土台を持ち、3という創造性の性質に0という霊的でもあり、なんにでも姿を変えうるような数字が加わる、30度では、そのサインの性質の、現実的な落としどころをあえて、最も現実的に、そして、笑いに変えるくらい、ユーモアたっぷりに、分かりやすく示しているように思えます。


だからこそ、次のサインから始まる、ストーリーが、際立ち、次のサインの1度が より、感動的に新鮮に表れてくるのかもしれません。
30度はある意味、最もそのサインらしい。陰よりでも、陽よりでもなく、真ん中で中庸だ。


牡羊座30度のアヒルの池の子供は、牡羊座でここまでずっと描かれてきた、 意識の世界、高いところにあるイメージや、宇宙との繋がりといった牡羊座の学びに対して、結局、アヒルの子はアヒルの池に帰るんだよ。

みたいなことを言っているわけです。 牡羊座は、自我の世界であり、個人意識の世界ですので、まだ相対するものを持ちません。ですので、どこまでも可能性が広がるし、イメージも広がるのです。


もっと言えば、まだ肉体の使い方すらあまり分かっていないようなサインですので、 意識のままに、どこまでもそれこそ、無限にイメージは広がり行くのです。


しかし、次なる牡牛座は、肉体を持ち、その資質を生かして、この物質次元で、 実際的に生きる世界が始まるのです。

牡羊座の最後の度数では、その宇宙の果てまで無限に広がるような意識の世界を、次なる牡牛座を始めていくために、どこかに落としどころを作らねばならなかったのかもしれません。

それは、牡羊座の、無限に広がる意識の世界においては、(私たちは誰しもこの無限の意識を根源に持っている)、どこかに自分を限定する、ということは、 ある意味、パロディ映画のようであり、罰ゲームのようでもあるのかもしれません。


結局、魂の出どころはどこであっても、アヒルの子に生まれたらアヒルの池に戻るのが一番落ち着くんだよ、みたいなことは、牡羊座的な意識にとっては、 最も絶望的なことかもしれないし、世界の終わりにすら感じるのかもしれない。


しかし、そのもともと慣れ親しんだ、自分にとっては、なんの新鮮さもワクワク感もない、その世界こそが、最も自分の才能を生かせる場所であったり、 自分にとっては、馴染みすぎてて当たり前になっていることこそが、自分らしさを出せる場所なのかもしれない。


次の牡牛座では、そうした場所で、肉体と五感と共に、コツコツと反復し、自分自身の資質をこの世界で生かしていく学びが始まりますので、 牡羊座の終焉は、牡牛座の大いなる始まりでもあるのだと思います。