身だしなみの整ってない男
An untidy, unkempt man.
24の数字は3を土台に置いた6の数字になります。
6は環境との調和を図る数字ですが、自然数の6である時、偶数として働きますので、環境からの影響を受け、それに自分を沿わせて行くことで、周囲とのハーモニーを図ります。
6は偶数ですから、時に、自分を犠牲にしたり、切り売りしてでも周りと調和をとる資質としても現れることがあります。
6番目のサインである、乙女座の性質を見ると、よく分かるところがあるのではないでしょうか。
7の世界とバランスを取る在り方は、能動的であるのに対して、6は自分自身の輪郭が出来上がる前の段階で、ここで自らの輪郭を創り上げようとしている場面でもありますから、相手や世界のエネルギーが、実はまだ流入していなかったりします。
ですから、相手の気持ちをイメージするときそれは、相手の真実を知っているわけではなく、あくまで自分の世界においての、自分のイメージで、相手と関わっていくことになります。
ですから、時に、間違えてしまうこともあるでしょうし、やりすぎてしまうことも出てくるのです。
でもだからこそ、自分を犠牲にしてでも相手の為になることをしようとか、
相手の為に尽くすことができるというのも乙女座的な資質となります。
6は、2のエネルギーが土台にあるとき15になりますから、今度は環境に対して、力強く、意思表示をしていくことになります。
自らの影響を、周囲に対して、強く主張していくのです。
今度は、自らが、周囲の境界を侵すエネルギーを15では持つことになるのです。
これに対して、3の創造性を土台に置いた24は、6の性質が統合化された形で働きますから、
自らを犠牲にしても周囲と調和をとる6のエネルギーと、
相手の境界を侵してでも、周囲への強い主張をしていく15のエネルギーが
統合的に働きますので、とてもストイックに、自らの資質を掘り下げていく
数字のエネルギーを24の数字は持ちます。
サビアンにおいて、私はこの24度の度数を「オタク度数」といっていて、
そのサインの性質における、成熟した実りを迎えるのが23度ですが、
24度では更に、ストイックに自らのサインをやり切ろうとして限界を突破していきます。
獅子座の24度では、身だしなみの整っていない男となっています。
身だしなみ、というのは、周りの人たちの為に、エチケットとして、整えるものだと思います。
休日、ずっと家にいるとき、誰にも会わないときに、私たちはほとんどの場合、
身だしなみなど整えないし、起きたままの格好で一日過ごすことも多いのではないでしょうか。
人の目、があるから、私たちは、身なりを整えることをするのではないでしょうか。
獅子座の前半の物語を思い出して頂きたいのですが、前半のストーリーにおいて、獅子座は終始ずっと、人の目を意識し、その中で、自分が一番目立つ、キラキラとした存在でい続ける必要がありました。
人よりも良いものを身に着け、良いスキル、優れた能力、人よりも優れた創造物を、常に周りに向けて表現し続ける必要がありました。
こうした獅子座前半の在り方は、自分が一番、キラキラした存在でい続けるという、ある意味、とても芸能人的な在り方です。
それは、自分が世界の中心を生きているようで、実は、周囲の目。を生き続けていることに他ならなかったのではないでしょうか。
自分がどうか。よりも、周りの目にどう映るか。
そのことによって、認められ賞賛され、ステイタスを得る。
こうした学びが獅子座前半における、学びだったと思います。
そんな周囲の目。が全ての基準であった前半の獅子座のストーリーから、
後半に入ると、自分自身の本当の個性を生きることに、開かれていきました。
周りに賞賛されることや、どう見られるかよりも、自分らしい個性に集中し、
本当の意味での創造性を発揮していくことに、エネルギーが注がれ始めたのが、
後半のここまでのストーリーだったと思います。
24度のこの度数では、周囲の目や、周りのことなど全く気にも留めず、
自らのやるべきことに強く集中している姿が描かれていると思います。
一つ前の23度で裸馬乗りという度数でしたが、ここでは、魂の片鱗に接触し始めた人物が、半分馬の状態(本能的で動物的な状態)と、半分人間の状態に
昇華していっている過程でもあったと思うのです。
ケンタウロス族のケイローンは射手座の星図の象徴ですが、私たちは、
習性と宿命を生きる動物的な部分と、意識的に人生を選択し、切り開いていく
人間の部分とを持っているのだと思います。
意志をもって、目的をもち、その目的に向かって、行動を続けることが
私たち人間にはできるのです。
これが習性を生きるのみの動物であれば、腹が減れば餌を探しに行き、
もちろん、愛する子供たちの為に餌をとってくることもするでしょう。
また、住まいを温かく保つために、枯れ葉を集めたり、洞穴に住居をつくったり、
天敵から身を守るために木の上に巣を作ったりすることもできます。
こうしたことは、動物や虫たちも行っていることで、習性のままに生きる部分だったりします。
私たち人間も、このように習性を生きる部分が、多分にあると思いますが、
そこにプラスして、個々で考え、自らのしたいように、人生をつくりあげていくこともまた、出来るのです。
獅子座の最終テーマは、自らの魂の創造性を発揮して生きる事。ですから、
ついにここに来て、それが何なのかが分かり、手に触れられるものとして、意識化されてきたのだと思います。
こうした魂の中心となるもの。が見えないうちは、私たちは外へ外へと意識が向き、ありとあらゆることに、意識が分散します。
その時々の、快の赴くまま、刺激の赴くままに、あちらへ、こちらへと、興味の対象が移り変わります。
それは、決して長続きするものではなく、気分的な刺激や快楽が終わると、
またすぐに忘れ去ってしまうようなもので、月の影響とか、季節の流れとか、天気とかで、すぐに、移り変わって行くようなものです。
こうした、習性を生きる、という状態から、魂の中心なるエネルギーに触れ始めると、そこに意識が深く集中していくのです。
そうなると、外側へ意識がほとんど向かなくなり、ちょっとした快楽や刺激にも、
気分を持っていかれなくなります。
そういうものが、とても、儚いもので、真の満足を得るものではないことを、
この人物はもう知っているからです。
それよりも、今、見え始めている、この魂の中心なるもの。のエネルギーの
迸るような強い輝きに触れてしまっては、もうそこに集中していかざるを得ないし、
それ以外のことはどうでもいいことのように思えるのです。
なので、当然、身なりなど構ってる暇もなく、ボーボーのもじゃもじゃで、
一心不乱に、魂。に集中している姿が、この度数では描かれているのだと思います。