虹
A rainbow.
26の数字は、8の数字のエネルギーを持ちます。サビアンにおける26度は、そのサインの結論に対して、五感でしっかりとそれを感じ、手を触れて、香りを嗅ぎ、味わい尽くします。
ここまでのサインのストーリーがどこに落とし込まれ、結果が出るのかを、
その目で、舌で確認するのです。
8は、物質性の完成形というエネルギーを持つ数字です。
また8はエーテルでもあり、ここで形骸化したものは、同時に解体に入り、その存在性を別次元へと変えていくスタートラインでもあります。
私たちは自分の中にあるイメージやインスピレーションを形にしたい、
具現化したい、現実にしたいという、欲求がものすごくありますが、
形になったものは同時に解体に入る。という、自然界の法則をきっちりと
認識しておく必要があると思います。
物質性とは永遠ではないのです。
形になったものは、形になった途端、崩れ去る準備を始めるのです。
ですから、形にすることを夢見て、頑張ることは勿論尊いことですし、
この地球を生きる上での醍醐味ですが、それは永続性ではありません。
形に永遠を求めるから、おかしなことになるのです。
形に永遠性という幻想を重ね合わせたとたん、私たちは間違った方向に生き始めるのです。それを執着というのだと思います。
獅子座26度は虹。というキーワードが書かれています。
8という形あるものとして完成したものを味わう度数である26度に、虹。という
「形のないもの」が登場します。
牡牛座の4度などにも、虹というキーワードが出てきますが、
虹は、魂の契約をサビアンでは表します。
私たちの魂は、形のないもの。ですが、私たちが魂を生きる。ということは、
それを、この地球で形にして行く。ということに他なりません。
私たちは魂の資質を思い出し、それを生きるために、この地球に生まれ、
肉体経験をしているのだと思います。
虹は、どこから始まってどこが終わりなのかも分からない、いつ出現し、いつ消えるのかも分からない。手に触れられるようでそれは決して手に触れられない。
でも、虹というものは、それが出現すると、他の何よりもリアルで、現実的なものに見えるはずです。
他の何物をも圧倒する存在感と真実味があるものです。
私たちは、魂を生きるようになる時、自分にしか分からない「兆候」を常に読み取り、それと共に生きるようになります。
その兆候は、常に「虹」のようなものなのだと思います。
いつ出るか、どこに出るか、どのような形で出るか、それは、全く分からない、そして、それは、他の誰にも理解できるものではないので、いくら他者に説明したところで、分かるものではないし、言葉にすればするほど空しく、他者には
「頭がおかしい」と思われて終わってしまうようなものです。
でも、魂だけがそれを真実だと知っている、分かっているそういう感覚の物です。
獅子座はここまでの流れの中で、一つ前の25度で、自らの魂の資質に完全に意識的になり、他の全てを捨て去っても、そこに集中していく、
それが何よりも重要なことなのだということを思い出し、それ以外のもは、どうでもいいことだと、気が付いたのだと思います。
実際に、魂のエネルギーに触れ始め、それを思い出し始めると、
本当にそれ以外のことは、どうでもいいことだと分かる瞬間というのがあるのだと思います。
全てのエネルギーをそこに向けていく、四六時中、24時間、ずっとそれを生きたくなる。それが何よりの喜びになるのです。
それは、決して、あなた以外の人には分からないものだし、誰かと一緒にそれをすることもできないものですから、基本的には砂漠を横断する駱駝のように1人でそこに挑んでいくことになります。
だから、最初はそこは、ものすごく過酷な環境の荒野のようにも見えることがある。
自らが、絶対と信じて、進んだ道ではあったが、砂漠という誰もいなく、誰にも頼れず、水や食べ物もなく、もしかしたら死ぬかもしれないような環境です。
そんなところに、たった一人で挑んでいくなんて、普通に考えたら、
あいつは頭がおかしくなったんだ、と周りから思われるようなことです。
でも本人は、それしかないと思っている。
それが一番重要なことで、大切なことだと信じている。
だから、自らの資質だけを頼りにそこに挑んでいくのです。
途中で、水が尽きるかもしれない、灼熱の太陽で焼け焦げてしまうかもしれない。
奇跡でも起こらない限り・・
魂の道というのは、そういうものなのかもしれません。
でも、その奇跡が起こるのもまた、魂の道なのかもしれません。
砂漠の荒野をたった一人、一歩一歩踏みしめていく、水は尽きてしまい、
体力ももう限界で・・でも、頼る人もいなければ、自分自身しかいない。
もうこれで万策が尽きたか・・と思うような時、その瞬間に、パーッと虹が現れて、
オアシスが出現する。
そんな奇跡が起こるのもまた、魂の道なのかもしれません。
絶体絶命だと思ったけど、奇跡が起こる。
自らの資質を生きるということは、こういうことが実際に起こるのではないでしょうか。
私たちは、未来への様々な不安からいろいろなものを備えます。
備えあれば憂いなしとばかりに、必要になるかならないか分からなくても
たくさんのものを、未来のために備えます。
そして、安全策を取ります。危険は冒しません。
リスクは取りません。みんなと同じようにします。
もちろんそれは、この社会を生きる上でとても重要な要素だし、
大人として無くてはならない感覚なのですが、
いくら、備えても備えても、ダメな時はダメのですよね。
99個備えていたはずなのに、残りの1個だけ備えていなかったことが起こる。
そういうことってあるのだと思います。
でも、魂って、何もかもを委ね、全てを捨て去っても、その残りの1個の奇跡を起こしてくる・・不思議なミラクルを・・
獅子座の26度は、そういった魂の道を歩み始めたときに、常に共に歩んでいくことになる「虹」(奇跡)について言及しているのだと思います。
それは、手繰り寄せても触れられるものではない。
打ち出の小槌みたいに、出したいときにいつでも出せるような類のものでもない。
いつ出るのか、どこでどんなふうに出るかといったセオリーも決まりもない。
それは、とても心もとなくて、実体のないようなものに思えるのだけれども、
実は何よりも、リアルで、どんな経験的な備えにも叶わないほどの
威力を持つものなのです。
私たちが、魂の道を歩む時、この虹。と常に共にあるのだと思います。
それは、他者には決して見えない、自分にしか分からないもので、
とても不確かに見えて、何よりも確かなもの。
そういう「虹」と、私たちは生きていくことになります。
ここで出てくる虹とは、
一つ前の度数で、砂漠にたった一人入って行った駱駝だけが、
見ることが出来る虹なのです。