香炉を持つ少年

A boy with a censer.

サビアンにおける26度は、5度区分ずつのグループ分けにおいては、

最後の第6グループの1番最初の度数です。

第6グループは、そのサインの最後の総まとめになるグループで、

次のサインの要素が流れ込んでくる場面ですから、交じり合います。

乙女座の第6グループでは次の天秤座が少しずつ流入してきて意識されます。

乙女座の、個の輪郭を獲得する世界から、天秤座の個を超えた世界へと、開かれていく準備が始まるのです。

一つ前の乙女座25度では、この俗社会のなかで、個人としての輪郭を探し求め、

追い求め続けて来た乙女座の物語に一つの終止符がうたれ、卒業の場面を迎えていました。

見えるもの、形あるものの世界の中に、自分を発見し、自分を落とし込む挑戦が乙女座の学びでしたが、それを、やり切って、学びきった暁に出る、

卒業証書のような、弔意の半旗が描かれていました。

インドのヴェーダの思想などでは、四住期の思想があり、

50代頃からの林住期では、社会的なしがらみを断ち切り、家や仕事を捨て、

婚姻も解消し、1人で森の中に入り、聖典の勉強と瞑想の修行に入っていきます。

何物にも縛られず、自分が本当にやりたいことに、集中していく時間に入る、という意味なのです。

私たちの社会では、人生100年時代とも言われるようになり、

50代といえども、まだまだバリバリ働き続けている人も多いと思いますが、

しかし、、精神の流れ。で言えば、この四住期のシステムは無理が無いように思います。

第1ステージの学生期は、8歳から25歳頃までと言われ、目上の人の元で生きるための知識を学ぶ時間で、未熟な時期です。

次の、第2ステージは、25~50歳くらいの年齢で、学生を終え、社会に出て、収入を得て、結婚し、家庭を築き、家族や社会に対する責任を担っていく時間です。

そして、第3のステージが、林住期であり、森に入る時間です。

私たちの精神の流れも、このような家庭を辿っているように思います。

今は晩婚化の時代ですから、40歳前後で子供を産む人も少なくありませんし、

高齢化時代ですから、40代~70代くらいまで親の介護になる人も少なくありません。

しかし、

平均してだいたい、50代頃には子供も巣立ち、社会的な役割が変容していく時間に入ります。

今は人生100年時代ですから、ずっと現役で、サラリーマンを終えた後に、

第二の仕事を始めていく人も多いでしょう。

しかし、だんだんと、この俗社会に対する、ものの見方や、捉え方が

変わっていく年齢であることは、今も昔も変わらないのではないでしょうか。

だんだんと、年老いてきて、体に在る自分自身の在り方も変わってきます。

体と自分との対話加減が若い頃とは全く違ってきますし、

かつてのように、期待万全で、この物質界に野望を抱かなくなってくるのが

自然の流れなのではないでしょうか。

若い頃に、あんなに求めていたもの、欲しいと思っていたものが、

この頃の年齢になってくると、そう欲しいものでもなかったというふうに

考え方が変わってくる。

それよりも、物質的なしがらみを手放して、森に入り、瞑想や聖典の学習に

何物にも邪魔されず集中したい、、そう思うようになる人が増えてくるのではないでしょうか。

あんなに強く求めた物質的価値のなかには、真の自分が発見できないことを、

悟るのがこの頃の年代なのかもしれません。

秘教の教えでは、弟子道。というものがあります。

人間は、熱烈に自分の野望を追い求める時代を経た後、精神的な世界に開かれ、奉仕の道である、弟子道に入って行き、光の道を歩み始める過程に入る、という

教えがあります。

弟子道においても、沢山の過程があり、ヒエラルキーがあるのですが、それは、

物質的な階級ではなく、意識の成熟度によって図られる階級なのです。

乙女座26度で描かれる、香炉を持つ少年は、この世界においてはまだ新参者で、見習いです。

しかし、光の道に歩み入った者であることが感じ取れます。

この第6グループでは、次の天秤座に入っていく為の準備が始まる場面ですから、

この場面では乙女座の最大のテーマである、「個の輪郭を確立する」という

テーマを、成し遂げ、満了しなければなりません。

25度までで物質的、俗社会における輪郭を獲得することはやり遂げたわけですが、真の意味での自分自身の輪郭を獲得するには目に見える世界だけで獲得したのでは、成し遂げたことにはなりません。

真の意味での輪郭は、この俗社会でのテーマをやり尽くした上で、

その先に至る、精神の境地であり、魂への回帰だからなのです。

この度数では、そうした光の道へ、弟子入りし、ここでは新参者として、

スタートを切った場面と言えるのではないでしょうか。

物質的な社会では、どれだけ地位のある人でも、会社の社長さんでも

成功者でも、弟子道に入れば、物質的な地位は関係ありません。

皆、新米の弟子として、香炉を持つような役割から始めばなりません。

こうして、私たちも、物質的な俗社会での努力を切磋琢磨やり切った後に、

インドの林住期のように、目に見えない世界のレッスンに入ることで、

真の意味で、自分の輪郭を発見していく、最終レッスンに至ることが出来るのではないでしょうか。