旗手
A flag-bearer.
サビアンにおける26度は、5度区分ずつの6つのグループ分けにおける、第6グループの最初の度数です。
この最後の第6グループを通して、そのサインを終焉させ、次のサインのエネルギーを受け止め、交じり合っていくストーリーもまた、
始まっていきます。
26は、土台に3を置いた8の数字のエネルギーです。
8は、形骸化し、形になる、物質化が完了するエネルギーの数字になります。
8の形になるエネルギーと、17の反作用は、希薄化し、精神性が高まり
スピリチュアルエネルギーが流入する数字になります。
そして、26は、その両方の作用で創造されるもの、形として、現れてくるものですから、そのサインの最終結果、のような目に見える形が現れてくる場面になります。
射手座のストーリーは、ここまでで、物質的な豊かさ、精神的な充実という相反するものを両方獲得し、統合された形での、バランスの良い、
成功と幸せを手に入れ、達成する場面に到達してきました。
形のあるものを手に入れ、物質的、金銭的に豊かであることの幸せと、
精神的、内面的に満たされていることの幸せ。
このどちらもがバランスよく整っていなくては、本当の幸せを獲得したとは言えません。
精神性や心を大事にする人は、お金じゃない、とか、お金お金言ってはいけないという罪悪感を強く持っている人が多くて、その罪悪感が、自分のことも他人のことも犠牲にしてしまう。
逆に、物質的成功や、お金だけを重要視する人は、どこかのタイミングで、心や精神性をないがしろにしてきたツケをを必ず払わされています。
物質性か、精神性か。
このどちらかに偏る幸せは、ハリボテの見せかけの幸せであり、
それは、まだ幼さを脱していないのです。
しかし、射手座の後半では、そのどちらものバランスを獲得し、
ある意味、悟りの境地、みたいなところに到達していたのです。
そして、一つ前の25度の、玩具の馬に乗っている小太りの少年。の
度数では、ある種の停滞。
全てを手に入れたことによる、退屈。のような場面が描かれていたと思います。
このように、物質性と精神性の両方を獲得した人というのは、もはや、
自分のためだけに生きることは、退屈でしかないのです。
自分のために生き切った人のみが、手に入れる世界を、この人は手に入れているのですから、自分の所に流れ込んできた無限の豊かさを、
更に、外に流して、循環を起こしていく役割を担った人なのです。
家の中で、おもちゃの馬に跨って、空想を楽しんでいるだけでは、
その循環の流れをせき止めてしまうことにもなりかねません。
射手座の26度は、旗手というキーワードになっています。
旗手、というのは、軍隊や、団体の交信などで、そのしるしとなる旗を持つ人のことで、
思想や、芸術などの、その先頭に立って活躍する人というような意味も持ちます。
射手座の第6グループが始まるこの度数からは、次第に、次のサインである、山羊座のエネルギーが流入してきます。
射手座のこれまで手に入れてきた、統合的な成幸の形や、獲得してきた精神性や、物質的成功、高い意識レベルや、高いスキルや知識、思想といったものは、これらの経験値を、今度は、この人は社会的なものとして、循環させていかなければならない。
自分の意図とは関わらず、そういう流れに自然と入っていくものなのだと思います。
その流れをせき止めて生きると、小太りの少年が、おもちゃの馬に跨って一人遊びを楽しむようなそういう停滞の場面になってしまうのでしょう。
射手座の25度までに手に入れた幸せのカタチ。というものは、
誰しもにとって、理想とする境地なわけですから、これを生き方として、哲学として、啓蒙していく流れに入っていくのが、この度数からの流れかもしれません。
25度では、家の中で玩具遊びを楽しんで、一人の愉しみとして、楽しんでいたものを、今度は、はっきりと、自分の思想はこうです!と、旗を掲げて、公明正大に、言っていく。
そういう、場面がここでは訪れていて、自分の所に流入した豊かさを、
自分だけのものにせず、流していくことで、更なら豊かさと創造性を産んでいく循環の流れに、サレンダーされていくことを、徐々に覚悟を決め始めるのが、この度数からなのだと思います。