お茶会をしている高貴な貴婦人たち
Grande dames at tea.
サビアンにおける27度は、5度区分ずつのグループ分けにおいては、第6グループの2番目の度数で、9度ずつの区分分けにおいては、第3グループの9番目であり、第3グループの最後の度数です。
ここで、そのサインの成熟した創造性の物語が終わり、徐々に、次の第4グループへのエネルギーが入り込んでくる場面です。
一つ前の27度では、香炉を持つ少年に象徴づけられた、精神的探求の世界においては新参者の、初学者の人物像が、目に見えない世界を真摯に学ぼうとしている姿が描かれていました。
乙女座のここまでの物語は、形ある世界で、自らの意志を、形にすること。
自分自身をこの社会の集団の中での物質的ヒエラルキーに、位置づけることがテーマでした。
そして、それを、全うし、成し遂げた後、24度、25度あたりから徐々に、
現場を退いていく。流れに入っていったのでしたね。
形ある世界をやり尽くしたら、今度は、本当の意味での、自分自身の個人としての輪郭を知るために、形の無い世界への興味となっていったのでした。
形ある世界を追い求め、求め尽くし、やり切ってきたからこそ、本当の自分自身の姿に気付くことが出来るようになる。という流れが起こってきたのが、
24度、25度あたりの度数だったと思います。
そして、26度では、香炉を持つ少年として、初学者として、精神世界の弟子入りをしたのでした。
スピリチュアルを学び始めると、とかく、こうして真面目過ぎるほど真面目に、真摯に精神世界の学問を習得しようとする人がいます。
決して遊び半分な浮ついた気持ちではなく、真剣に、学習に取り組む。
これは、素晴らしい姿だし、やはり、真面目にコツコツ、真摯に学ぶことが出来ないと、その先には行けないし、分からないことも沢山あるのだと感じます。
しかし、では、真面目にコツコツ学びさえすれば、精神的な成熟が得られたり、
悟りや、ニルヴァーナの境地に到達でき、大いなる自己に巡り合うことが出来るのでしょうか。
よく、アシュラムや、山寺に修行に入る者に、俗世で罪を犯したものや、
俗世で物質的な成功を修めたものなど、あらゆる種類の人たちが、入山を志すとも言われますが、その時に、俗世で得た金銭や所有物を全て、お寺に修めて、
俗世のしがらみを全て断ち切って、自分自身は身一つになって、修行の道に入る場合もあるのだといいます。
こうして、志一つにして、神の道、仏の道に入ることが素晴らしいとされる宗教世界では、とかく、清貧であれ、物やお金に溺れてはいけない、欲望は宜しくないものとされていると思いますが、果たしてそうでしょうか。
一切の俗世の欲を断ち切って、精神探求の道に入ったら、悟りの境地に到達できるのでしょうか。
それも一つの道であり、大切な方法ではあると思いますが、サビアンは一歩その先を言っているのではないかと、この度数を見ると感じるのです。
乙女座27度のキーワードであるdameは、ナイトに相当する叙勲を受けた、女性に対して使用する敬称の一つだそうです。
Grande damesは、非常に高貴な位の貴婦人たちの集まりであることがイメージできます。
そんな高い位の貴婦人たちが、お茶を飲んでお喋りをしている様が描かれているのがこの度数です。
一つ前の、香炉を持つ少年、の、真摯で真面目な精神世界探求への一本道への集中度合と比べて、こちらの度数はいかがでしょうか。
真逆にようにも見えるのではないでしょうか。
俗世の全てを捨てて、自らの悟りの道を探るために、精神修行の学びの道に入る26度と、優雅で豊かな着飾った社会的位の高い貴婦人たちが、お茶を飲んでお喋りをしている姿は、極性の相反する世界観を感じるのではないでしょうか。
ヘルメス文書では、宇宙の中心のヘリオスを取り囲む12のデイモス(神々の合唱隊)と呼ばれ、超越的な力を持つものの周りには必ず、お金や仕事の心配がない、贅沢な暮らしをしている女性たちがいる。と書かれているそうです。
ヘルメス文書が書かれたヘレニズム時代にもこうした宇宙観があったようです。
これは、私たちの時代においても同じことが言えるのではないかと思います。
そもそも、精神的な道を探求する。ということは、究極、「食うに困らない状態」でなければ出来ないことだたりするのかもしれません。
托鉢をして回った、ブッタは、お金も家も持たなかったし、
名だたるマスターたちは、清貧を極めていたものも多かった。
確かにそうかもしれません。
しかし、ブッタにもキリストにも、日々の食事や、寝床を提供している女性たちの存在があったのかもしれません。
宗教の発達の経緯もそのようなことがほとんどで、名だたる宗教家を、
王様やお金持ちの将軍様が、城に囲い啓蒙活動に、多額のお金を投入したから、宗教研究が進んだことも事実です。
そもそも、牡羊座時代の枢軸時代に、一神教が台頭してきた流れも、
その数千年前から、農業や稲作が発達し、余剰食物の確保が可能となり、
狩猟採集生活から、人間が、農耕生活に移行し、食うに困らない状態に
進化したから、ということと密接に関わりがあるのだと思います。
それまでの私たちは、宗教。というよりは、アニミズム的な精霊信仰の背景の中で長く、自然と共存する生活を送って来たのですから、食べることや生活は自然と共にあったのだと思います。
ですから、学問や、精神的な事柄を探求する。などという事は、相当、時代が後になってから。生活において、「食うに困らない状態」でなければ出来ないことなのです。
マズローの欲求五段階説にもあるように、まずは、物質的な欲求である、生理的欲求や安全欲求が満たされ、その次に、はじめて精神的な欲求に入って行き、まず、最初に社会的欲求が来て、それが満たされると、承認欲求、そして、最後に自己実現欲求。という順序になっていますよね。
精神探求とか、宗教的事柄、というのは、この最後の自己実現欲求の更にその先にあるもので、そこを回避してはいけないのではないかというのが、究極的な真実なのだと思います。
物質的欲求や、社会的欲求、自己承認欲求、自己実現欲求。私たちは、こうしたあらゆる欲求と欲望を持っていて、宗教ではこうしたものを持ってはいけない、
ここをすっ飛ばして、悟りの道へ行こうとするように思いますが、それは、
土台、無理なのではないかと思います。
そして、こういうものを欲求する自分を、責め立ててはいけないのだと思います。
それは、人間として自然なことなのだと思います。
27度のこの度数で描かれるのは、高貴な貴婦人たちが、お茶を飲みながらお喋りをしてる、そんな呑気で気ままな場面にこそ、精神の道を究めるヒントがある、というようなことを言っているように思います。
全てを捨て去り、身一つになって、入山する道もあるのだろうけれども
究極それをしたからといって確実に悟れる保証はない。
それよりも、社会的物質的に、満たされて、難しいことを一切考えなくていい状態の彼女たちが、究極的には、宇宙とか見えない世界との媒介路になりうるということもあるのだと。
これは、現代社会の主婦のゆるふわスピブームにも、相通じる所があるように思います。
もうどう見たって、ゆるふわの、地に足つかぬ、お遊びスピだし、
真面目に探求している人たちから見れば眉唾もの。そんなの偽物だって言われるような、集まり(お茶会)がいっぱいありますよね。笑
でも、それは、本質的なスピではないとは言えないし、
悟りに繋がる道ではない、とも言い切れないのではないでしょうか。
そうやって、難しいこと感がる必要もなく、ただ、見えない世界の色彩豊かな世界観を楽しむ。メルヘンやファンタジーとして、楽しみ尽くす。
そういう感性は、豊かでないと持てません。
大真面目に、もうそれしか道がない。とばかりに悟りの道に執着するものと、
遊び心いっぱいで、メルヘンやファンタジーを楽しむように、自然に執着なく楽しめるのと、どちらが、本当にその道に近づけるでしょうか。
どちらが正しい、間違っているということでもないし、どちらも、各々に偏りはあるのだと思います。
しかし、26度と27度は、見えない世界で、自分自身の輪郭を発見しようとしはじめた最初の、初学の段階で、どちらもありえる、二つの道を示しているようにも、
私には見えるのです。